2016年12月18日日曜日

練習場より 2016.12.18号 - 肘

思うに、クラブの軌道はボールの飛球に大きな影響を与えるものであり、よってスライスやトップの原因になるものは、左腕だと思われる。

左腕を右から左に回すには可なり高度な運動が必要で、例えばアニメに登場するロボットでこの運動ができる構造のものは一体もない。出来ているなら、どこかにマジックを使っているはずである。なるほど、人間ほどボールを上手く投げられる動物はいないという話にも納得である。

投石は人類における最初の武器革命であったが、現在でも、デモや騒乱において投石は有効な攻撃方法である。手榴弾は手投げできる武器であり、今も配備されている。グレネードランチャーは手榴弾をより遠くに飛ばす装置で、旧陸軍は八九式重擲弾筒という優れた装備をしていた。徴兵された職業野球人が投げるばかりではなかったのである。

何かを投げることに特化したポジションには、野球、ソフトボールのピッチャーや、アメリカンフットボールのクォータバック、やり投げ、砲丸投げなどがある。一般的にものを扱うスポーツには投げる能力が必要である。射撃やモータースポーツなど一部を除けば、釣りは言うに及ばす、サッカーでさえ投げる必要(スローインなど)がある。

いずれも、後ろから前への腕の振りで投擲するのだが、腕の振り方によっては故障の原因になる。当然だが、フォームの良しあしは投擲の速度や距離に影響する。

で、何が言いたいかと言えば、肘の重要性である。

ゴルフのスイングは右から左への動きだからスポーツの投げ方としては一般的でない、それはスキーとスノーボードのように前向きと横向きのスポーツの違いと同じである。つまり、スタンスの違いはあっても、従うべき物理学は基本的に同じなのである。投げる以上は肘が重要なことに違いはない。

投擲は肘で行う。

ピッチングは肘を曲げた所から延びるように動かす。野球であれソフトボールであれ同じである。いずれも投擲の最後の段階で、腕を伸ばし軌道半径を長くし移動距離を増やす。これによって、力を与える時間を稼ごうとしているのである。ボールに十分な速度を与えるにはある程度の距離を必要とするからである。

正しくボールを放り投げるためには、肘を引くようなスイングをするのは良くない。だが、何故かそういうスイングになっている。

何故か。その理由は自明であって、そうしなければ腕が上手く畳めないからである。何かが動きを邪魔している。それが解消できないので、仕方なく、腕は迂回経路を通り、その結果、肘を引く動きが必要となり、その結果、肘の畳み方も狂ってくる。

原因がどこにあるのかは未だ分かっていない。それがスイングの初動にあるのか、それとも、途中にあるのかさえも。

これが現在の課題である。それでも、原因を遡りこれ以上ないという所までいくしかないと思うのである。

2016年11月20日日曜日

練習場より 2016.11.20号 - パワーロス

我々は、どれだけパワーを発揮できるかだけではなく、如何にパワーロスを減らせるかにも着目しなければならない。

パワーロスとは、負の方向に向かうものであり、力みが原因となることも多い。だが力みだけがその原因ではないという話である。

単純に言えば、摩擦である。摩擦を減らすことで高性能になるというのは、マグネットコーティングの考え方である。つまりはガンダムだ。

スイングの中でもっとも動く部分に注目する。一部に注意して、全体を作り上げてゆくのはそんなに間違った方法ではないと思っている。

フォーカスする場所は、夫々の人によって異なるだろう。自分の場合は左腕である。人によってそれぞれだから左腕に限ることはない。右腕でも、足の動きでも構わない。もちろんプロともなればもっと多くの場所を意識しているだろう。

だが、アマチュアならば、ひとつの部位だけで十分だと思うのである。先ずは隗より始めよである。ひとつの場所が正しく動作するなら、他の部位も正しさは伝播している。

例えば、歩兵があるエリアを制圧しようとする時、その領域を空軍に爆撃要請する。もし空軍が爆撃に失敗すれば作戦は失敗する。

これと同じなのだ。左腕が正しく動くためには、肩であったり、腰であったり、脚であったり、そのほかの場所に動きを要請する。これから左腕は右から左に向かって動きます。腰はこれをちゃんと支えてくださいね、みたいな協調が体の中で発生しているはずである。

ある一部分が完璧に完全である時、その周囲も完全に動いているはずである。お互いに影響しあっているはずだから。

これらの各部の協調、シンクロナイズがスイングの全体を形作るだろうと思うのである。

それはまるで一枚の絵のようなものだ。たった一本の線がすべての配置を決めてしまう。一本の線を少しずらすだけでも、全体を見直さなければならなくなる。それはまるでひとつのデザインのようなものだ。ほんの少し配置を変えてしまえば、全体の印象をまるで変えてしまう。

では、左腕の完璧に正しい動きとはどういうものか。これが実は謎であって、そういうものがあるのか、ないのかさえはっきりしない。

ゆえに完全に完璧は困難だとしても、線形に完璧に近づく道はあるはずと信じることはできる。もし非線形ならば、80%の次が81%とは言えないので、完璧に近づくという考えが無駄かも知れない。

それでも、スムーズさ、トップからフィニッシュまでの動きが滑らかであること、加速域が想定された場所で起きること、あたりをチェックしてゆけばよいのではないだろうか。言い換えれば左腕がパワーロスしないことを意識する。そうすることで、恐らくだが、それ以外の部位もそれなりに正しい動きをしているだろうという信仰である。

もちろん、天才でなければ分からない組み合わせはあるだろう。このあたり、数百年の人間の営みを超えて新しい手を見つけ出す囲碁の AI みたいな話だ。

2016年11月13日日曜日

練習場より 2016.11.13号 - 部分の正常性が全体に及ぼす影響

回転する物体にも力が掛かっている(角運動)。その力は基本的にふたつの直線の力に分けて考える事ができる。そのひとつは回転する方向にかかる直線の力である。一般的に力がかかった物体は直線に動く。

回転する運動から直線に移行する運動には、例えば手から離れたり、クランクが切断された時の運動がある。回転中に手から離すことを利用したスポーツのひとつがハンマー投げである。

この原理はゴルフスイングでも同様であって、クラブヘッドはまっすぐ動こうとするが、腕がそれを引き留めている。だから円状の軌道を通る事ができる。

よってゴルフスイングのパワーロスの殆どは、円運動をさせるために発生していると言っても過言ではなく、要はゴルフクラブが飛んでいかないようにする力がパワーロスの原因と言える。

グリップもそうであるし、左腕の使い方もそうだ。右腕の畳み方も、上体の開き方も同様である。

複雑な動きがあると様々な要因でパワーロスが起きる。どれが原因となっているかを正しく見極める事は重要である。なぜなら、原因を間違えると、対処法も間違えるからである。

直さなくて良い所を修正すると、その影響が広く及ぶ。元々の原因が取り除かれていないので、パワーロスは取り除かれていない。すると、その修正は何の影響もしないか、またはもっと悪くなるかのいずれかだろう。

仮に悪い原因を正しく取り除いたとしても、それが多数ある原因のひとつに過ぎないならば、必ずしも良くなるとは限らない。取り除いたために、別の場所に新しい原因が発生するかも知れない。もっと悪くなる可能性さえある(全体のバランスが更に崩れるため)。

逆に、それを取り除くためには、悪い箇所ではなく、全く関係ない場所に手を入れるべきなのかも知れない。それによって全体が良くなる可能性もあるわけである。複雑すぎてなんとも言えないのである。

音波に音波を重ねると音を消すことができるが、重ね方次第では増幅する。スイングのどこが間違っているかを語るのは難しい。微小な関係が複雑に入り組んでいて人間業とは思えない。

だから、とりあえず次の方法論を採用するのである。

例えば、左腕の動作だけは完璧であると仮定する。その上で次の対応を考えてゆく。幻想の階段をひとつだけ設置する。その上に本物の階段を構築してゆくようなものだ。

もちろん、左腕の動きが完全に正しいはずがない。それでも左腕には不具合がない、そこは間違っていないと仮定すると話を先に進める事ができる。

トップしたり、ダフったりとしても、左腕は原因ではない。とすると、何が原因であるか。上体の角度か?膝の動きか?というように推測してゆく。

クラブと左腕の進む方向は一致すべきか?それとも角度を持っているべきなのか?左腕が動くときの右腕の位置はどうすればよいか?

そうやって、ある特定の場所は完璧であると仮定するならば、スイングを形作るものが色々と変えてゆけるだろうと思うのである。

もちろん、明らかに左腕が間違ているという場合もある。それも常にチェックしておかなければならない。逆に言えば、左腕の動きが完璧でなければ、他を意識しても仕方がないとも言えるわけである。

つまり、左腕の動きが完璧であるとは、左腕だけでも完璧に動かそうとする意識と言ってもよい。

一か所だけでも(グリップであれ、左腕であれ、右腕であれ、右足であれ、左肩であれ、背中であれ)完全に近いというレベルにまで高めることが出来れば、それに引っ張られるように全体も正しくなると、信じてもよい。

なぜなら、全体が密接に関係している以上、ある一箇所の動作が完璧に正しいならば、全体も正しくなっているからである。もし一箇所にでも正しくない動作があるのなら、どこひとつとして完全にはなっていないのである。全てがつながって全てが影響し合っているならばそうなるであろう。

箱の中にある気体の分子がひとつ動いたのなら、その箱の中の全部の分子がその影響を受けて動くはずだからである。ただ影響が大きいか小さいか、その影響がすぐに消えるか、ずっと長く続くかだけの違いである。

これは次のような式にしてもよいだろう。

A1+A2+B1+B2+...+Z1+Z2 = 0

合計が 0 の時がスイングは理想的な状態にある。

すべての要素(A1,A2,...Z1.Z2)が 0 である時、これは完全な理想形である。だが、合計を 0 にするのに全てを 0 にする必要はない。A1 が 10 であっても B1 が -10 なら打ち消し合って 0 になる。これでも理想的なスイングは得られるわけである。

もし A1 と A2 が独立した値ならば、お互いは影響しない。ひとつひとつの要素を 0 にしてゆくしかない。

全ての要素が関係しているとは、A2 = A1 + 2 のように式をひとつの要素に置き換える事ができる場合である。こうすれば一箇所(ひとつの要素)を 0 にするだけで結果を 0 にすることができる。

これはすべて仮説(hypothesis)である。

2016年11月6日日曜日

練習場より 2016.11.06号 - スイングをよく整備せよ

人間の動作というものは日常生活では大抵は成功するものである。コップを掴むのに失敗したなど聞かない。もし落としたらそれは病気の兆候である。

それくらいに自分たちは日常生活の中で体の使い方に対して無頓着である。無頓着でもうまく動くようになっている。我々は、何も意識しなくたって、うまく立ち回っていると思い込んでいるわけである。

例えば自転車。何も考えなくても乗ることができる。漕ぎ方で悩むこともない。だから競輪選手やロードレーサが自転車に乗っているのを見れば、自分でもできそうだなと思ったりする。

何も考えなくても自動車が運転できる。だからレース場でかっ飛ばしてみたいなと思ったりする。

それもこれも、我々の日常が、失敗に対する許容範囲を広くとるように上手く作られているという事実を忘れているからである。

コップを持つのに数センチずれたところで、困らない。それは人間がうまくやっているのではなく、そうなるような形状で作られているだけである。あれはどこを持っても落ちにくいように工夫されてきた形なのである。これは人類が長い時間をかけて洗練させてきた形と言ってもいい。

自転車は、自転車の機構だけではなく、それが走る道路もまた自転車が走りやすいように作られてきたのである。だから自然の地形を走るトライアルなどは、はなから無理と思うわけである。

トライアルは無理で、ロードレースならやれそうだと思うのはなかなか無邪気な考えである。

どのような競技であれ、最高峰のプロともなれば、重心の位置であれ、関節の角度であれ、筋肉の使い方であれ、数mmの精度、時間にして0.1秒単位の精度で競っている。

そういうぎりぎりの極めて恣意的に成功させなければ成立しない世界でその人たちは競っている。それを形だけ真似て似ているから自分でもできると思うのは、景徳鎮の偽物を本物と喜んでいるのと相違ない。

人間は無意識に出来ることは、自然に出来ていると思い込んでいる。しかし、人間は上体を起こす動作さえ、どの筋肉をどのように使うかは人それぞれで異なっているといってもいいくらいに自己流である。背筋で上体を持ち上げる人もいれば、腹筋で押し上げる人もいる。

ただまっすぐ立つ動作でさえ、どの筋肉をどれくらい使っているかは何通りもあって、関節の角度まで測れば千差万別であろう。

どれが自然かと問われたらどれも自然である。それは正に多様性という自然の戦略である。試行錯誤によって可能性を高める進化論の中は、どの方法も不適合や不適切がありうる。どれも可能性の問題であり、それを決定するのは環境との相性だからである。単なる組み合わせの問題だからである。

意志をもち恣意的に行う方が、成功率は高まる。自然がそのような方法を取らないのは、意識的に対応しようとする方法は想定内のものにしか対応できないからである。その程度の低い限界に、生命のすべてを委ねるわけにはいかない。

もちろんこれは種の戦略の話であって、ひとつの命、一回の人生に限れば、時代の限界や制限、科学知識、無知、未解明に翻弄されるとはいえ、自然の多様性に賭けるよりは遥かに成功率は高い。また自ら選択し決断する満足感も得られる。

完全ではないが、こうすればと思う方法を試す価値は十分にある。もちろん、それでも失敗する可能性は高い。それでも全体としての視点から攻略するか、個々の視点に攻略するかという選択肢があることは望ましい。

ゴルフスイングは極めて高い精度を求めるものである。その運動は日常生活の延長線には決してない。とても特殊な運動である。

たった一球のスイングが、ピットで整備したレーシングカーのタイムアタックのようなものである。走行前によく点検し、整備を完璧してからコースに送り出す。その繰り返しの中で勝負事は決まってゆくわけである。

スポーツのすべては人間の数百もの関節の角度の組み合わせと言ってよい。その僅かな差がどれだけ影響するるかは明らかである。一度ずれるだけで、100m先ではどれほど違うか。少しのタイミングの差でスイングは全く違うものになる。

体幹の右側への右腕の当たり方ひとつとっても、その影響は莫大である。その違いだけで、見ているだけでは違いがなさそうに見える二つのスイングが実は全く違う、という事はあり得る。

それを本物と偽物と呼んでも差し支えない。カマキリとカマキリモドキかも知れない。進化論ではどちらが優れているという話はない。

機械やプログラミングであれば、関節にセンサーを乗せて、角度を測ったり、モータの回転を制御すれば理想的なスイングが再現できるかも知れないが、人間ではそうもいかない。人間は全ての関節を意識的には動かせないのである。

だから、どう意識して、どう反復して、練習を積んでも、まったく同じスイングをするのは難しい。さらにスタンスも風も湿度も刻一刻と変わってゆく。

いずれにしろ、角度は重要である。スイングは、最初にゴルフクラブを落とす所から始まる。位置エネルギーを運動エネルギーに変える運動は、自然と右腕の位置をどうするかを規定する。あまりに、体の横すぎれば、右から左への移動で障害になるし、前に出過ぎたら、横移動する時に力が集中できないであろう。

背が丸まった形では、ドライバーでは力が上手く発揮できないし、だが、後ろに伸び切ってしまうと、今度はピッチでの精度が落ちる。それぞれで角度は違うであろうという事は予測できる。

まずは右腕の角度というものについて、この精度について検証したい。

2016年10月15日土曜日

GOLF 2016/10/15 - クラブの無重力状態

ある時に気付いたのだが、トップの位置からまっすぐに落ちるという感じが相応しいようだ。腕だけがカクッと折れると感じか。ヘッドが落ちたクラブは、落ちてからボールにヒットするように動く。

クラブはまず右足よりも右側できちんと下に落ちる。次に、落ちてから左に移動する。大雑把に言えば、この2段階に分解できる。

だから、重力によってどこにクラブヘッドが落ちるかはとても重要である。

これはスイングプレーンは円であると意識していては理解し難い考えだろう。

回転運動を円として理解するのは、コペルニクスの説にも認められる自然な考えである。アリスタルコスが唱えてから2000年近くもこれを支持する根拠が見いだせなかった。ブルーノは神という考えからこの説を支持したが処刑されてしまった。

この思い込みから抜け出すには、ティコの膨大かつ正確な観測記録と、ヨハネスのおそらく何年にも渡る試行錯誤の計算が必要であった。彼が見い出したのは楕円軌道であった。

ケプラーの3つの運動式から、アイザックはそれを満たすただひとつの式を導く。それは長く人々に使われてきたが、観測精度の高まりが、次の新しい式を欲した。すなわちアルベルトの登場である。

そのせいかどうかは知らないが、人間は野球のスイングだろうが、テニスラケットの動きであろうが、ゴルフスイングであろうが、円運動として認識する。

常識的に考えれば、人間の体には回転に使える中心軸はない。モーターとは機構が違うのである。それどころか楕円軌道であるための二つの焦点さえないのである。

しかし物理学の効率を追及する限り運動は円/楕円軌道が望ましいはずである。とすればゴルフスイングは複数の回転運動の合成と考えるのが妥当であろう。

背骨で支えられた骨格の人間が回転運動をする時、それはとても複雑な動きをなす。機械ならば簡単にできる回転運動が人間の構造では出来ないのである。

であるから、スイングは幾つかの運動に分解して理解するべきである。この幾つかとは、運動の部分部分で中心となっている場所が移り変わっていると考えるべきだし、また、幾つもの筋肉が時間差を持ちながらこの運動に参加していると考えるべきだろう。


まず下に落下したゴルフクラブ(phase 1)は、そこから横の動き(phase 2)に移動する。イメージは「俺は直角」の直角切りである。

バックスイングからトップ位置にあるクラブは、ダウンスイングで最初は自由落下で下に落とす。このとき、ボールに向かう力を与えるのは正しくないように思える。重力の位置エネルギーで自然と落とした後に、フィジカルの力が与えられるべきだろう。もちろん、この間は0.5秒もないはずである。

下に落ち切ったクラブに対して、強く横に払う運動が加わるとき、それは振り子のような動きではない。それは最初の動き出しだけで十分なはずである。

クラブが下に落ちるまでは最初の動き出しがスムーズになればよく、その点では、自由落下によって、無重力状態に(近い状態に)あるクラブに対して、横向きの力を与えて本格的な加速が始まると言ってよいだろう。

エアーホッケーと同じで無重力状態ならば、与えた力によってスムーズに移動できるわけである。油の敷いた路面で車がよく滑るように、落下によって重量が(見かけ上)減ったクラブならば力を与えやすいわけである。

クラブに力を掛けるには、腕の軌道がとても重要で、そこで重要なのはどれだけ力を入れられるかではない。どれだけスムーズにできるか。重要なのはパワーロスをしないことである。

コースでは体も脳も疲労する。脳が疲労すれば、判断力は鈍る。鈍くても正しく判断できるならばまだよい。普通は間違った判断が連発しだす。ゴルフもまたヒューマンエラーの連続なのだる。

これに対処するには、脳の疲労と鍛えるしかなく、同時に適切な休憩と栄養補給が必要なはずだ。

いずれにしろ、簡単に8だの11打のを叩くようでは話にならない。慙愧。

2016年10月9日日曜日

練習場より 2016.10.09号 - パター開眼

パターの所作においても、クラブは、右足より右側の位置で既に下りていなければならない。

これは他のクラブも同じであって、下っている状態とは、簡単に言えば、クラブのシャフトがどこを向いているかと言う話である。

グリップの端は、トップでは、延長線が地面と交差する。これがスイングの回転で、空と交差する。

これがどこで完了していなければならないかという位置の問題として、クラブヘッドが右足よりも右側で完了していなければならないようだ。

2016年10月3日月曜日

GOLF 2016/10/03 - 現在を未来の過去として生きる

人は未来に向かって生きる。しかし、現実に生きていられる時間は、今という瞬間しかない。だから、いつも人は、一度未来を生きてみて、今という過去に戻ってくる。その来るべき未来に味わった後悔から逃れるために、今に立ち戻り、今をもう一度生きてみる。

ゴルフもまた同じ。スイングをする前に、未来を思い描く。そこには様々な可能性の未来がある。全てが上手くゆく未来。べたっとピンに寄せている自分。距離が足りずにバンカーに入ってしまう自分。大きく曲がり林の中に吸い込まれゆく自分。

様々な成功も失敗も経験した上で、こうはなりたくない、だけれどもトライしてみなければ結果は分からない。それを知った上で、自分はこうチョイスする。そのたった一度のスイングは未来の後悔から振り向いた過去として行われているのである。

後悔したくなければ、それは結果にではなく、今の自分に出来る事にフォーカスするしかなく、それはを無くしてスイングするという事でもある。

腕の角度も、腰の持ち方も、それぞれはスイングの結果とは何も関係しない。ただ、このスイングを良きものにしたいという考えだけで決定する。最高の結果を求めるし、それは過程によって決定すると知ってはいても、その選択がどのような結果をもたらすかは打ってみなければ分からない。もちろんあらゆる限りの知識を動員して、方向を決め、距離を決め、クラブとスイング径を決める。

だが、それは結果ではない。私たちに残されているのは、考えられる限り理想的なスイングをする事だけである。

クラブがどのように向きを変えるか、それがどの場所で起きれば、パワーロスの少ない最もスムーズなスイングになるか。大切な事は、右足よりもずっと右の場所でそれは行われなければならないという事だ。パターでさえ、右足よりももっと右側でダウンに入っている。

という心構えをしてもコースでは失敗の連続である。その度に、どう微調整すればいいかを考える。その上で、それは今すべきことかと考える。少しずつ改善されてゆくのは練習場も同じである。

同じシチュエーションは二度と来ない。コースでなら確かにそうである。だが練習場はどうか。同じように見える。しかし、それは微視性の問題に過ぎない。それを小さく取れば取る程、練習場でも同じシチュエーションなど二度と起きないのである。あると言うためには違いを無視できるほど微視性を大きくするしかない。

いずれにせよ、我々は常に現在という過去を生きている。意識は先に進んだり、ずっと後ろに戻ったりしながら、あちこちを覗いている。だから、今を生きるとは、未来からみた過去の再現であったり、過去から見た未来の成就だったりする。今だけで今が出来ているのではない。過去のない今などありえない。未来のない今など無意味だ。

もちろん、未来と過去と現在を繋ぐのは単なる脳の働きに過ぎない事は分かっている。脳はそうやって記憶の中から自己の一体性を把握する。その正当性は時間の中に連続性があるという事である。経験は蓄積される。その蓄積された順序が時間の正体である。

もちろん、物理学のいう時間とは量子の振動だったりエネルギーの揺らぎだったり光子の移動距離だったりする。孰れにしろそれはゴルフとはあまり関係ない。

過去から繋がっている未来を覗いてみる。そして、今を未来からの過去として生きてみる。

そういうスイングもあるという話。

2016年9月16日金曜日

練習場より 2016.09.16号 - 腹筋で支える

熊田曜子の事を此処に書く事になろうとは思いもしなかった。しかりロンドンハーツで彼女が言った事は正しいと思う。

通常、姿勢を良くする、背中をピンと伸ばすと言われたら、背中の筋肉を意識する。

しかしながら、背中の筋肉は基本的に薄く表面にへばり付いている形であり、ものを支えるのには不適切な構造である。

支えるならば倒れる方向に対して三角形の形を作るべきなのだが、体を横から見れば分かるように、背中側だけでは十分な三角形を作る事ができない。底辺の短い三角形しか作れないのである。

背骨はキャメルクラッチの例を見れば分かる通り前にはよく曲がるが、後ろには曲がりにくい構造である。これは関節がそうなるように嵌め込まれているからで、逆に言えば、その構造で重さを支えれば、筋肉は不要という話になる。

もともと、四足歩行から二足歩行に移行した時点で、類人猿は体を垂直に支える必要が生まれた。多くの猿がその支える役割を重力に任せている。木の上でぶらんとぶら下がることで、ほおっておいても自然とまっすぐになるのである。

陸上歩行する猿の多くは前傾姿勢である。見事な直立姿勢を見せるのはよく訓練された猿か、ボノボか猫くらいしか聞かない。

熊田曜子が語っていたのは、姿勢は腹筋で決まるという話だ。少し抑えつけたくらい腹筋を緊張させている状態が、良いという話である。

この話を聞いて不意に思った事がある。人間の特徴のひとつはよく発達した腹筋ではないのか。非常に恣意的な訓練をすれば8パックも可能だ。そのような不自然な話は除くとしても、四足動物と比べた時、直立姿勢を支えるのに人間は強く腹筋を発展させた動物ではないのだろうか。

姿勢を良くする、背中をまっすぐにする。その時、意識するのは背中ではなく、反対側を使う。上半身は腹筋で支える。そう考えた。

腹筋で上半身の全体を押し上げる。首や背中の筋肉は基本的にバランスを取るためだけに使う。そう意識してくると、色々な事が理解できた気がした。

背骨を腹筋で支えるのだから、肋骨を下から押し上げるイメージである。これは、腹側から上半身を後ろに押すような形である。

後ろに押された背骨は構造で全体を支えればよく、筋肉を使う必要はない。頭ものけぞるくらい後ろに倒せば、首の筋肉にも休息を与えることができる。これは腹部と背骨で作られた三角形が強く支える形になっていると思う。

そもそも、腹筋という大きな筋肉は、おそらく背筋よりも強い。肩が凝った、背中が凝ったという話はよく聞くが、腹筋が凝ったなどという話は聞かない。腹筋は支えるのに適した筋肉であり、力も強くかつ、休みやすいように出来ているはずだ。

この姿勢の変化は、ゴルフスイングにも影響すると思っている。

スタンスからして、支え方が違ってきているからである。

その上でシャフトの両端(グリップとネック/ヘッド)を意識する。

ヘッドは最も遠い位置からボールに向かって移動する。その時、ひとつの流れるような運動ではなく、二段階に分けて運動するようである。最初にトップ位置から下に落とす。まずネックが上を向く位置まで落とす。次にヘッドが横方向への運動を開始する。

これが二次元平面上(X,Y)ではなく、三次元空間(X,Y,Z)で行われる。その軌道は円軌道をイメージしない。

2016年9月4日日曜日

練習場より 2016.09.04号 - 地面の重要性

スイングの時、ときたまいい感じで打てる事がある。それはずっと謎だった。その時に何が起きているのかが。

スイングは重力から逃れられない。位置エネルギーは高さ0の時0であり、遠くなるほど無限大に近づく。距離が0になるほど位置エネルギーから運動エネルギーに置き換わるので位置エネルギーは0に近づくのである。

当然クラブを高いところから、ボールの位置まで下げることは、位置エネルギーを運動エネルギーに変える運動である。

これは重力による運動であって、クラブの質量を重力が引き付けるから発生する運動である。この運動エネルギーはその先でボールと衝突する。

これは超新星爆発と同じメカニズムでもある。超新星爆発は、周辺の粒子がものすごい勢いで落ちてくる現象である。落ちてきた粒子は、恒星の中心にある核と衝突する。

恒星の中心は強い重力によって凝縮しようとする。それが高圧高温状態を生み出し、核融合を可能とする。水素(1)からヘリウム(2)と始まり鉄(26)までこの現象が続く。しかしコアが鉄になるとこれ以上核融合が進まない。それどころか、光崩壊によってヘリウムと中性子に変わる。すると鉄が占めていた場所がヘリウムに変わるので、中心の密度は希薄になる。

そこに一気に周囲の粒子が流れ込む。流れ込んだものが中心に新しい核を作り出し、その後から流れ込んできた粒子とぶつかる。衝突した粒子はコアで跳ね返される。衝突する以上の反発が起きれば全体は外側に向かって広がる。一気に広がれば周囲のものを全て吹き飛ばすことになる。これが超新星(爆発)である。

超新星と比べるまでもないが、ゴルフスイングだって話は同じだ。下から上に向かい、また上に上がる以上、どこかで位置エネルギーは地面と衝突しているはずである。衝突すれば斥力が起きるのは当然であろう。

これを簡単に言い換えるならば、スイングすれば、地面に向かって押すような運動をしているはずであって、それは当然ながら地面から押し返されているという事である(この場合の衝突は重力によって起きるが、斥力は電磁気力で発生する)。

ゴルフコースは芝生なので、斥力は芝生のクッションも考慮しなければならない。ここが難しさのひとつなのである。スポーツのほどんどが床を固く安定させる方向で発展している。芝生や砂浜でやることは難しさの要因である。

この反発する力にうまくのる事が、いい感じの正体であると思う。それを感じるためには、スタンス。姿勢が重要だろう。まっすく落ちた力を押し返してくる。それを体できちんと受け止めるためには、スタンスの状態で準備しておかなくてはならない。足の位置と重心は跳ね返される力に対して構えていなければならない。

そうすると、自然と前傾姿勢や、前かがみであるより、垂直に立つ方がいい。こうして反力を受け止めるスタンスを作れば、あとは、クラブがボールにヒットする時に、つまりクラブが一番下にある時に斥力を感じ、その力をきちんと受けとめて、クラブが上がることに利用すればいい。

スイングは決して体の中でだけ完成する運動ではない。スイングが成立するためには地球という巨大な質量と重力が必要である。もちろん、生物が生存するには太陽も重要である。この人間原理によってゴルフクラブが生まれ、重力によってクラブはボールと当たり、そして、地面からの斥力によってクラブはフィニッシュに位置に上がるのである。

太陽と重力と地面。これらの力を使うという事が、スイングには欠かせない。

2016年8月30日火曜日

練習場より 2016.08.28号 - 肩を両側に乗せる

ワニや猫のような四足動物では、肩甲骨は体の側面に付く。

樹上生活のために腕の発達した猿では、体の両側に肩がつき、肩甲骨は背中側にある。これは樹上生活に対応したもので、腕の可動範囲を増やすための進化であろう。木の上から地上に降りた人間も、この構造は受け継いでいる。

二足で立つ姿勢は、人間に腰痛と肩こりを起こす要因となったが、それを進化論だけのせいにするわけにはいかない。正しい姿勢をしなければ、疲労やコリを起こすのは当然だと思われる。可動範囲という自由が、さらにそのような状況を生むことを促進するだろう。

だから、肩をどこに置くは重要である。これを間違えると、肩こりに悩まされるからである。

ラジオ体操第一の伸びの運動で、腕を高く上げた後に、横にそのまま卸す。これが肩のノーマルなポジションと思われる。

所が、最近の人間は生活様式の劇的な変貌から多く腕を前で使う。これが自然と肩を前側に押す力となる。これが肩こりの更なる原因のひとつになったと思うのである。

肩を前ですぼめるように配置するのは、運動する体勢としても正しくないように思う。

ボクシングなどではガードを固めるために腕を前に置く。そのような特殊な場合を除けば、野球でも野手の構えは、グローブを前に出し過ぎるのは正しいとは思えない。下、横、上などとあらゆる方向を前提とするなら、腕を前に出し過ぎない方が自由になると思う。

ゴルフも腕は右上から左に移動する。この動きで、肩が前気味にあると、両側への移動を妨げる。

それは自然と肘を引くような形で動かさなければならなくなる。これがスイングに影響を与えないはずがない。肘を引く動きの欠点は、可動域がわりかし小さいという点である。肘を動かすとあっという間に可動域の限界点に達する。それはゴルフスイングの可動域よりも小さい。

肘を引いても移動距離が短く直ぐに停止点で止まってしまう。肘が止まれば、その後はスイング軌道の邪魔になる。

そうしないためにはどうすべきか。

肩関節を体の両側におく、両肩の上に乗せておくように意識し、横から出すようにイメージする。その位置から腕を前に出してクラブを持つように意識するのが良さそうである。

肩を体の前ではなく両側に構える。両肩を前ですぼめるのではなく、胸は開けたままで構える。腕を前で組むために、前傾姿勢が必要となるこれが由縁である。

こうすることで肘を引く動きを抑制でき、体の近くでスイングできる。そういう強制を肩の位置で強いるのである。

2016年8月7日日曜日

練習場より 2016.08.07号 - T字の深さ

二点間を結ぶ時に、ゴルフクラブの長さが何に影響するかと言えば、深さだと思う。

T字型のゼンマイがあるとする。肩と背骨でT字型となって左右に回転する仕組みだ。この時、背骨を中心にねじれが発生するが、これは右から左にクラブが軌道するためである。

ここで重要な事はねじれの力がスイングのパワーの源泉ではない、という事だ。クラブに力を与えるためには加速するための移動距離が必要であり、その距離は左右の移動することで発生させるしかない。

これがクラブの長さを決定的する。その時、Tの縦の長さにも影響を与えるはずである。ねじりの中心がどこにあるかは、クラブの長さによって決定される。

このT時の下がどこにあるかと言えば、体の中に納まるとは限らない。ドライバーになると、体よりもっと下に位置する。アプローチならもっと上にある。

深さとはこのT時の縦軸の長さの事である。

いずれにしろ、腰あたりにTが刺さっていて、上半身はそこに支えられて動いている。腰骨でそれを支え、その上でバランスを取っているようである。

もし、腰骨が支えていなければ、上半身の方が腰骨にへばりつくしかない。そうするためには背中の筋肉でそれを行うことになる。ずっと緊張していなければならない。

当然ながら、これは肩こりの原因のひとつになる。腰に上半身がへばりついているためには24時間ずっと緊張していなければならないからだ。

そうではなく、乗っている状態にすれば、バランスが取るためだけに筋肉は弛緩することができる。バランスが崩れた時には緊張し、そうでないときは弛緩していればいい。

これは重力をどう使うかという話でもある。重力を上手に使うならば、上に載せておく方が効率的である。しかし、それには重心を高くして、バランスが崩れやすいリスクがある。

このバランスの崩れやすさはスイングに影響しないはずがない。T時の縦棒を動かさないよう意識することが重要な所以である。スイングの時はT時の縦棒を決して動かさないくらいの気持ちの方が良いようだ。

2016年7月31日日曜日

練習場より 2016.07.31号 - 無心 I (徒然草)

徒然草 第92段
或人、弓射ることを習ふに、諸矢もろやをたばさみて的に向ふ。師の云はく「初心の人、二つの矢を持つことなかれ。後の矢を頼みて、始めの矢に等閑の心あり。毎度、ただ、得失なく、この一矢に定むべしと思へ」と云ふ。わづかに二つの矢、師の前にて一つをおろかにせんと思はんや。懈怠けたいの心、みづから知らずといへども、師これを知る。この戒め、万ことにわたるべし。

道を学する人、夕には朝あらんことを思ひ、朝には夕あらんことを思ひて、重ねてねんごろに修せんことを期す。いわんや、一刹那の中において、懈怠の心あることを知らんや。何ぞ、ただ今の一念において直ちにすることの甚だ難き。


ある人、アプローチをするのに、このボールをぴったし寄せてやるとばかりに打とうとするとき『ボールは飛ぶように飛ぶ。そこにうまいもへたもない。アマチュアはそんな自分をうまいと思っている。それがすでに慢心である。萎縮すれば近くでミスをする。慢心すれば遠くでミスをする。どちらも打つ前から安心しようとする心がある。目標を定めてからボールが飛んでゆくまで、周りに溶け込まないといけない。』我が出てくると慢心になる。我が出てくると萎縮する。我の心は知らぬ前に心を染める。知らずと知らずと謂えども、上手はこれを知る。この戒め、全てに通ず。

道を学ぶ人、夕には明日がまだあるからいいと思い、朝には夕方まで時間がたっぷりあると思う。それまで自分がしっかりやればいいと思っている。それが慢心である。既に懈怠に汚染されたことに気付いていない。ただこの一瞬の間だけでも、懈怠でないというのは、難しいものである。

どういう風に打つべきか。あまたの中では何が起きているべきか。

何ことも頭の中で何かを動かさなければ始まらないはずである。

もちろん、意識が知る頃には遅い場合がある。意識してからでは間に合わないことはたくさんある。それでも、Reaction として意識が働かなければ、出来ないこともある。

頭の中で動かすとは二つ以上の異なる状況を重ねることだと思う。そこに違いがあるならそれは動いたと言える。

この動くことを明瞭に意識することが違いに敏感になることである。勿論あらゆる情報を全て比較するのは実用的ではない。よって意識するとは、この比較する場所を限定することだと言える。

練習場では、スイングについての考察を重視するため、飛行線については余り考えない。それでも何度も繰り返し打っている間に、方向は自然と極まってゆく。

しかし、それは狙った方向に打つというよりも打つ度に微調節してゆくことで自然と決まったものである。だからいきなりどこかを狙って打つという力はついているとは言えない。

人間は常に意識することで身に着けることが出来る。それが自然とできるようになれば成功と言えるだろう。だから、漠然と打つよりも、短時間でも意識してやる方がいいという話がある。

漠然と自然に覚えるというのは自然な方法であるが、それが常に完全というわけではない。

いずれにしろ、狙った場所を打つ時には、方向と距離が必要である。

練習場では一点式の方法で行っている。それはスタンスに対してスイングだけをするという方法であって、方向性はほとんど無視している。

この方法では打感を重視している。スイングの全体の流れで、無駄な力は入っていないか、よりパワーのある打ち方はないか、と模索している。

しかし、この方法では当然だがコースへのフィードバックは多くはない。コースでは一回しか打てないからである。何度も何度も打ち直して、段々とブラッシュアップする練習場と、ただ一回だけを狙うコースとでは、求められる質も量も明らかに違う。

これを練習場で意識するためには、二点間の打撃が必要だろうと思ったのである。二点間とは、目標地点があり、そこに向かってスタンスをするという意識である。

これを意識すると、スイングには、ただ打つのではない、新しい制限が加わる。

まず目標地点に対してスタンスを取るようになる。次に、トップの位置からクラブを落とす方向に目標地点がなければならない。

力んだり、体が早く回ってはいけない。

よいスイングのためには、腕は小さく回さなければならない。

体が開いてしまわないように、お腹の動きが重要になる。

お腹がスイングの邪魔をしないようにしないといけない。

それでも、距離に対して、体は自然と反応しようとするから、大きなクラブで近くを狙ったり、小さなクラブでより遠くを狙うことを繰り返し、過剰な力が筋肉を動かさないよう意識することも大切になる。

過剰な力がスイングが狂う最も大きな原因であろう。なるべく遠くを狙う方が結果は良いようである。そのクラブで到達できる距離よりも、近くをターゲットにする方が、失敗する可能性は高くなる。

速度を抑制する、力加減を抑制する、体の動きを抑制するなど、力をセーブする動きが、全体のバランスを狂わせるからである。

車で急ブレーキを踏むと、リアが左右に振られるようなものである。

左右に揺れればクラブの飛線は不安定になるだろう。

もし、大きいクラブで近くを狙いたいならば、それなりのブレーキの踏み方があるはずである。シャフトを短く握る、小さく打つ、やっぱりクラブを小さくする。

いずれも重要なのはタイミングである。

この二点(自分の立っている場所とボールの目標)を意識した打ち方で練習をすれば、もう少しコースで打っているに近づけるかも知れない。

2016年7月23日土曜日

GOLF 2016/07/23 - 無心

無心というのは心を空っぽにすることではない、と思った。

練習場で出来ていた事が、6割とはいえ出来たと思う。

しかしスイングがスコアには結びついたとは言い難い。それほど大きなミスをした訳でもないのにスコアが伸びないように見える。これはゴルフの問題であって、スイングの問題ではあるまい。

スコアを10縮めたければハーフで5でよい、5回ほどミスをしなければよい。それは5回のチャンスをものにすれば良いとも言える。しかしこれを失う事は容易い。当人はミスと思っていないが、そのスコアはミスだらけで生まれたものだ。

思っていないものに気付くためには、心構えも必要になるだろう。

パッとが気持ちだけで入れるならば、これほど馬鹿らしいものはない。気分がどうであれ、情熱がどうであれ、気持ちがどうであれ、感情がどうであれ、それは物理学とは関係ないものである。もし関係したなら、それは超能力である。超能力があるならゴルフをやっている場合ではない。

では、どこに注意しなければならないか。これは本当に分からない。だが、練習場の面白さと、コースの面白さは必ずしも一致しないという事だけは分かっている。

コースでどうすれば良いのか、と自問してみる。どう振る舞う事が良いのか。それがスコアとどう結びつくのか。スコアが少ないことが絶対の正義ではない。それは分かっている。だが悪いスコアにも満足できないものがある。

どう考えて、どうゴルフをしたのか。その結果がスコアである。おそらく気付いていない様々なミスから、どれほどのしっぺ返しを受けたか。それに気付いていない。

巧みならばスコアは上がるのだろうか。だが、ゴルフの巧さとはどういうものかがまだ分からない。

ゴルフ場で見せる緊張感、集中力が重要であることは間違いない。それが疎かになっているのだろうか。もちろん、その可能性は高い。

だが、そういう考えで取り組んだとしてもスコアに直結するとは思えない。

何か、見えていないものがある。例えば、ゴルフが上手い人は風の妖精が見えているのではないか。僕はその姿を見た事がない。

ゴルフの妖精など見えなくとも80台くらいは十分に可能だろうし、そうでなくては困る。だが、それだけではゴルフには足りない。

少しはコースというものを想定して考えてみようと思った。

2016年7月22日金曜日

練習場より 2016.07.22号 - クラブの動き I

クラブは次の3つの点で構成されている。

  1. グリップ
  2. ネック
  3. ヘッドの重心

その独特の形状からヘッドの重心が最も関心を集めるのだが、クラブという構造を見たとき、力を与える場所は、グリップである。重力を最も受けるのはヘッドの重心である。

そして、もっとも人間がその運動を意識できるのがネックである。ヘッドの重心に意識を持つことが誤りの元であるように思う。ネックを意識すべきだと思う。何故なら、結果的にボールに力を伝えるのがヘッドだとすれば、もっとも安定して運動しているのはネックである。

クラブの重心が、シャフトの延長線上から外れている点がゴルフクラブのユニークさだと思う。この対称性のなさがゴルフクラブの独自性であり、重心の位置と運動の中心となるネックが違う軸線上にあることが、トルクを生み出す。

スイングで最も人間が意識するのはネックの振る舞いであって、グリップとネックとの間に働く力と比べれば、ヘッドの重心など、付随するおまけのようなものである。その運動の大部分はシャフトが生み出しているのであって、クラブヘッドは重りに過ぎない。

グリップとネックの運動を感得できるようになれば、恐らくスイングは変わるんだろうと思う。

2016年7月20日水曜日

練習場より 2016.07.20号 - クラブヘッドの回転

クラブというものは、3次元の動きをする。3次元は (x,y,z) の事であり、日本語なら(横、縦、高さ)で表わされる。

これらはいずれも距離である。距離は同じでも方向が違うから3次元である。方向とはもちろんベクトルの事であるから、3次元の運動は、いずれもベクトルの合成として考えることが出来る。逆に言えば、3次元は3つの方向に分解することができる。これはベクトルが足したり掛けたりできる演算だからである。

物理学では距離と時間は同値と考える。距離=速度×時間であるから、距離と時間は置き換え可能である。全ての距離を時間×速度に置き換えても良いし、時間を距離÷速度に置き換えても良い。なお速度を微分すれば加速度である。

相対的に速度は加算できる。すれ違った 300km/h の新幹線の速度差は 600km/h である。すれ違った新幹線に乗っている人には相手が 600km/h で走っているように感じられるのである。

しかし、光速新幹線ですれ違ったらそうは見えない。相手が c (2c ではない)で飛んでいるように見える。実際にはすれ違った瞬間の光がずっとついてくるので、すれ違った後の姿は見えないのではないだろうか。その光が減衰し、次第におぼろげに見えるのかも知れない。

お互いの位置を観測すれば、それぞれ同じ時間が経過した時には、同じ距離だけ離れているはずである。すると、A は c ,B は -c の位置に到達している。よって C から見れば、両者の速度差を計算すれば 2c となる(たぶん)。

もちろん厳密に言えば、光速の時、時間は 0 で進む(または距離が無限大)から、観測は不可能だと思う。光速で飛べば(それだけのエネルギーのある空間にいれば)、他の空間とは時間の進み方が変わる。時間の進み方が変われば観測結果も変わる。まるで温度が下がるほど粒子の振動数が0に近づくように時間の進み方も遅くなる。果たして絶対零度にある粒子は時間が経過しているのであろうか。

さて、4次元は3次元に時間を加えた時空という概念であるが、4次元を3つの空間とひとつの時間ではなく、4つの時間、または4つの距離と考える事も可能であろう。

では4つめの時間(距離)は何か、という話である。

概念だけなら4つの距離として4次元の説明は可能なはずである。だが4つ目の距離をどの方向のベクトルかと想像するのは難しい。我々の世界からは見えない4つめの方向がある、と考えられるからである。この世界では4つめの方向を目視できない。目に見えるものを距離、見えないものを時間と呼んでいるようである。

3次元の住人が2次元の住人と通信した時、3次元の物体を MRI の輪切り画像を2次元に送り付ければ、3次元の情報を伝える事ができる。しかし、2次元の住人はそれを重ねる事が出来ないから、平面に並べて眺めるしかない。これはレントゲン写真を横に何枚も貼り付けて見ている医者と同じである。

医者はそれらの情報から体の中で何が起きてるかを脳の中で立体視できるが、2次元の住人に立体視は無理そうである。もちろん、彼らは3次元の概念を知らないのだから理解できない、という結論はあり得ない。

2次元の住人の脳の中に3次元を構築する能力はなくても、並べた画像をアニメーションのように順番に流せば、それを時間変位における変化量として高さを捉える事が出来る。こうすれば、2次元の人でも3次元の高さを処理する事はできそうである。もちろん、2次元で時間が流れているのなら、それは3次元ではないか、という疑問もないではないが、その辺りは専門家の領分である。

またこうも考えられる。2次元の人が時間当たりの高さの変化を横軸に取れば、高さの変化を2次元だけで、つまりグラフで表現できそうである。この時、横の情報は欠落するが、3次元の高さを縦の位置と関連させて理解する事はできるであろう。

この話を援用すれば、4次元の時間(距離)も、3次元で表現することは可能と思える。ガウス平面みたいなものだろうか。

と、ここまで書いてきたが、もちろんこれらの話にはたくさんの誤りがある。信頼しないように。そもそも間違わない事は神の専権事項である。

さて、3次元空間の話である。元来ゴルフの話であるから、光速などどうでもいい考察なのである。

トップに掲げたクラブの向きは、ボールに当たる時には正面を向いている。右上にあるクラブヘッドの向きが、ボールの正面から当たる軌跡を通らなければならない。それも重力に従って無理なく進まなければならない。

  1. クラブは重力の影響を受ける。
  2. 体がクラブに運動を伝えるのは、グリップだけである。

つまり、ゴルフクラブのモデルは、棒の端っこを動かす事で得られる軌跡である。

この時、
  1. クラブは、完全な円運動ではない。
  2. クラブの中には円運動の中心は位置しない。

これに加えて、クラブには捩じられる力(トルク)が働く。

なにより、かれより、クラブヘッドはトップの位置では上下逆さまになる。上下をひっくり返して元の位置に戻す運動である。

トップの位置から体が正面を向く間に、クラブはその何倍もの大きな距離を移動する。この時、注意すべきはクラブが回転する中心軸はクラブの中にはないし、一点に固定されてもいない。クルクルとバトンを回すのとはそこが違うのである。例えるなら両肩と腕でできた井桁ようなものだろうか。これは左腕と右腕が交差する動きである。

クラブヘッドは右から左への直線運動ではなく、左上後ろから真ん中前下という立体的な移動をする。

このゴルフスイングの動きに体の方を合わせてゆかなければならない。前のめりになり過ぎれば肩が腕の動きを邪魔する。ボールに近づき過ぎれば、腕が縮んでしまって上手く回らない。肘はもっと体に近づけた方がいい。体はあまり前傾にしない方がいい。

打つ前に、クラブがそこに戻ることを意識する。それを単純に言い切ってしまえば、クラブヘッドの上下をひっくり返せ、という感じである。それをスイングの中に入れる。

人間には完全な自由意志などない。ただ、クラブの軌道を見つけ出し、その中に納まるようにスイングするだけである。所詮はゴルフも重力のスポーツである。それを超えることは出来ない。

2016年7月8日金曜日

練習場より 2016.07.08号 - 打つ前の選択

体にはグッドな通り道がある。腕と体の間には適切な距離がある。

それは自分が思った所よりもずっと近いようである。

それをスイングの前にこの辺りかなと一瞬でもいいから考えてみるとよく分かるものである。

クラブは重力に逆らって落下する訳にはいかない。その重力がどう働いているかも、少し動かしてみれば分かるものである。

スイングする前にそれらを確認しているか、していないかで、スイングの結果は大きく変わるだという話である。

そして、今回はどうすればいいのか。

それは打つ毎に想像してみるしかない。

どの道を通ればよいかは最初に決まる。

そう考えれば、選択肢は最初に選ぶしかない。

結果は当然の帰結に過ぎない。

江夏の21球が絶賛されるのは、あり得ない場所で方向転換をし、それが成功したからであろう。

我々は思った以上に、先に決めておかなければならない。

気付いた時にはもう手遅れなのである。

もちろん、打つ前に全てが決まるのではない。

スイングは少しとはいえ微調整が可能である。

つまり、スイングの中にも途中では変えられないものと、途中でも変えられるものがある。

体と腕がどれだけ近づくかは、打つ前に決めなければならない事の一つだと強く思う。

それを無意識でやっていると、思ったよりも遠くになる。

何故そうなるか。

それは肩の位置が関係している。

肩が前にあるか、横にあるかの違いと思われる。

人間はその軌跡を後から知る事しかできない。

そして、それを知りどう働きかけるかの自由だけが存在する。

それは意識しなければ失われる。

2016年7月5日火曜日

練習場より 2016.07.05号 - フーリエと波の合成

体の中で発生する力を波と見立てれれば、スイングは波の合成として単純な足し算で表現できる。

波が一致した場合は、波は加算されて大きくなるが、複数の波のタイミングがずれて一つの所で重なり合わなければ、力は合成さないか、あるいは負の方向に合成される。

スイング時の波をフーリエ変換すれば、小さな力の合成である事が分かるであろう。またスイングを微分してみれば、単純な加減速の運動なのか、それとも何度も発生する力が波状攻撃のように繰り返し合成されて発生しているかも分かるかも知れない。

体はトップの位置から次の順番で動いてゆく。
  1. トップ位置からの肩の動き
  2. 脇腹の動き
  3. 央腹筋の動き

腹筋が中央から左を向くように動く時、体は全体として左に開く。これは力の開放と言ってよい。これらの動きが波のように右から左へと順次伝わっている過程で起きる。

クラブの動きは体の動きと比べると異なる振幅で遷移する。体の動きを一定の波とすれば、クラブの動きはそれよりも遅く動き出し、加速して、体の波を追い抜いてゆく。

クラブが体の波を追い抜く時、体の波とクラブの波がインパクトで合力るのが望ましい。ドライバーの場合、体の波が先にインパクト位置に入り、その後からクラブが追いつくイメージである。その時、追いつくまでに体が先行すれば力は合成できない。

ボールの位置が左足のつま先側にあるのはこの遅れに対する許容幅を定義しているからである。中央位置で体の波に追いついた時にクラブの速度が早すぎるため中央からつま先までの時間差が発生するのである。

しかし、いずれにしろ、追いつくまで体は開いてはならない。そのため、瞬間とは言え、体の波を止めたまま後ろに追い越させるイメージが必要となる。

これがタイミングが合わせるという事だろうと思う。タイミングが合えば波は合力される。異なる二つ以上の波が総員合わさるのが重要と考える。


力がばらばらである場合。


力が波として一致した場合。


2016年6月11日土曜日

GOLF 2016/06/11 - ホイヘンスと重力

思うにスポーツとは重力の使い方を体で覚える事だ。

ゴルフにおける重力と言えば、トップの位置でクラブヘッドが受けるものが最大のもので、その位置エネルギーが利用される。もちろん、体も重力は受けているし筋肉の動きは無意識下に重力を利用したものである。ボールの運動も同様である。ボールがどれくらい飛ぶかは、重力が分かっていなければ求められるものではない。それが自然と分かっている人はフライを捕るのも上手い。

重力を利用するのはパターを打つときもそうであり、重力に逆らわない様に打つ方がいいに決まっている。

重力に逆らう、自由落下に逆らう。これは、新しい力の合成が加わるのと同じである。その余分な合力の分だけ運動は複雑になるという事である。複雑であれば軌道は不安定になりやすい。

パターはなるべく自由落下であることが望ましい。だから、その動きは振り子的になる。

振り子の動きはガリレオによって観察された。

T(周期)= 2π√(L(長さ)/g(重力定数))


ガリレオ(1564 - 1642)は、教会の振り子を観察(見ているだけでなく時間や距離を計測する方の観察)して、振り子の振幅の周期(元の場所に戻る時間)は、振幅の大きさ(揺れる幅の距離)に関係なく同じであることを発見した。

これを振り子の等時性(周期=時間が同じ)と呼ぶ。この振り子の性質は、等時性を利用すれば振幅を気にすることなく時間をカウントできるという事であった。これは単に揺らせばいいという話であるから使いやすい性質である。

振り子はほっておけば自然と止まるのでゼンマイなどの機構により揺らし続ければかなり正確な時間を刻む事ができる。実際に振り子時計は長く生活の中で使われてきたのである。

振子時計 - 金沢工業大学
クリスチャン・ホイヘンス | 時の有名人 | THE SEIKO MUSEUM セイコーミュージアム

ホイヘンス(1629 - 1695)は、振幅が大きい場合、この法則が成立しない事を発見した。また、この等時性は、サイクロイド曲線で振り子が運動する場合は常に成立することを証明した。

サイクロイド曲線とは
x=r(θ−sinθ),
y=r(1−cosθ)
θは任意の角度(0~2π)、rは長さ。

rを半径とする円をx方向に転がした時のある一転の軌跡。

最急降下線
AからBに転がり落ちる曲線でもっとも早くBに辿り着ける軌道。

ホイヘンスが振り子に利用したのはサイクロイド曲線であったが、それを実現するのに、ラッパのような管を使う事で振り子の軌道を調整した。その詳細は次のサイトを参照されたい。

ホイヘンスの振り子(サイクロイド振り子)...♪ - アットランダム - Yahoo!ブログ

振り子の両側をラッパのような管で覆うと、振り子はラッパのガイドに従って軌道が変化する。このラッパの形状をサイクロイドにしておけば、振り子もサイクロイド曲線の軌道を描く。なんという天才。

また、ホイヘンスは、ふたつの置時計が同期する現象(リズム現象)を発見した。これは振り子のかすかな振動が壁や柱を通して伝わる事で起きる現象である。それによってふたつの時計がいつの間にか同調してしまう現象である。これはふたつのメトロノームを使えば簡単に再現できる現象である。

わずかな振動が振り子に影響を与える。これは当時においてはとても致命的な話であった。

GPSのない大航海時代には、緯度と経度を割り出す事が船の位置を知るのに重要であった。緯度は日没時の太陽の位置や一日の長さから割り出すことができたが、経度はそれを求める事が出来なかった。

経度を求めるには正確な時間が必要であった。毎日の時刻を知ることができれば、例えば毎正午時の太陽の位置を求めれば経度を知ることができる。昨日と今日の太陽位置の差は、経度の差と比例する。必要なら季節の違い(カレンダー)も考慮すればよい。

同期現象を起こす時計では航海には使えない。船が揺れてしまえばその影響を受けて時間が狂ってしまう時計では航海で正確な時を刻む事ができないからだ。

SYNC: なぜ自然はシンクロしたがるのか - スティーヴン・ストロガッツ

この問題の解決にはジョン・ハリソン(1693 - 1776)によるクロノメーターの発明まで待たなければならなかった。


さて、振り子の話はゴルフとは何の関係もない話である。

著名なスポーツ選手たちは物理学のフの字は知らなくても正しく重力を使いこなす。物理学の計算式は知らなくても物理学の要請から外れることはない。彼らは物理学に則って最大限のパフォーマンスを発揮する。

それでも多くのスポーツ選手は物理学を知らないので、若い時に出来ていたことが、筋肉の衰えや、反応の鈍感に伴い、違ってくると、その違和感に対応できない場合がある。それを感覚(主に若いときに培われた)だけで訂正しようとしても状況から脱出しきれるものではない。

パターでは特に顕著であるが、クラブの重さを感じて、重力に沿って落ちるように打つべきだ。その落ち方がボールに対して進行方向を向くように調節することが筋肉の役割となる。

重力に従って落ちる場合、当然だが、体が揺れたり、回転する動きを与えようとしても方向性の安定は得られない。重要なことは力を加えることではなく、余計な力を排除することだ。

体の左サイドは固定し右サイドは動かす。これがトップでの動きであり、パットは特に右サイドだけで、最低限の動きに留めるべきだろう。

勿論、これはパターだけでなく、アイアンでも同様である。如何に重力を使ってクラブを落下させるか、その軌道から逆らわないようにするか。当然だが、重力で落ちるといっても、まっすぐ下(鉛直垂直線上)に落ちるものではない。トップの時に筋肉が与える力でそれは曲線軌道を採用するはずである。

人間の体ほどではないにしても、ゴルフクラブも十分に複雑な物理的特性を持っている。それを数式で表現する能力はないので、アニメーションでそれを表現できればいいのだが、それも難しい状況だ。よって、各人は体感してみて重力を使うということを感じるしかない。

重力に逆らわない:これは重力のみで落下させるという意味ではない。クラブは筋肉を使って加速する。その時に得られた軌道が重力(自然のあり方、物理学)で得られた軌道に逆らわないようにする。誰も物理学からの要諦に逆らうことはできないからである。

ゴルフをもっとも変える要因は重力定数 G の値だろう。だから G が異なる異星ではゴルフは随分と変わったものになるのではないだろうか、と思ったりもする。

2016年5月29日日曜日

練習場より 2016.05.29号 - 1,2,3パターン

ひとつが構築されたら、それが自然と次の何かを誘導する。それが発動し次の誘導を生み出す。その自動的な連続がひとつの模様なり形なり運動を生み出すことはチューリングパターンが教えてくれる。

それはスイングも同様だ。ひとつの動きが次の動きを誘導する。誘導の連鎖がひとつのスイングを作り出す。しかしカオスが教えるように初期値のわずかな違いが全く違う運動を描くように、ゴルフスイングもわずかな違いがどのような結果を生み出すか予測できない。

だからといって、振ってみるたびにてんでバラバラでもあるのも許容し難いわけである。カオスが発生するなら、その条件を検討すべきであるが、少なくとも人間の体は骨格と筋肉によって、カオスの発生は恐らく強く抑制されているように思えるのである。

一方でどれだけ複雑に見えるものでも対称性などに着目すればただ同じ所をくるくる回っているだけの運動かも知れない。ただの螺旋運動かも知れない。

人間の体は投げられたボールの軌跡よりは複雑であろう。200 を超える骨、大量の筋線維が生み出す運動。さらに精神の介入がそこには含まれる。ひとつとして同じスイングはない。ミリ単位で見れば、必ずどこかが違っている。これを cm まで拡張すれば殆ど同じスイングは再現可能と思える。もちろん cm も違えば、結果は m 単位で違ってくるのである。

前駆運動の誘導に必ず従えばよいわけではない。目的を持った運動はどこかで方向転換しなければならない。それをどこで行うかが重要とも言える。従うか、抗うかは When, Where に依存する。

右脇腹がスイングと共に動くとき、それは体を大きく揺らすわけではない。少し収縮する程度である。雰囲気としては、下半身と上半身がひねりの入った少しだけくの字のように感じられればよい。

そしてその後で腹筋が大きく動くタイミングがある。この腹筋で前を向いている体が、ボールの飛翔方向に向きを変える。

  1. トップ位置からの始動
  2. 右わき腹の初動
  3. 腹筋のターン

これらの連動が必要である。あまり意識しすぎると過剰反応となり、体が回りすぎたり、揺れが大きくなって、力がロストしたり、方向性が失われるだろう。

体の動きは発生と結果を繰り返す。ある時点での動きが、ひとつ前の結果であり、次に移るための始動でもある。終わりと始まりを常に兼ねている。

これのどちらか片方だけに注目するのは片手落ちであろう。その形の出来不出来が次に強く影響する。どの部分も、目標でありかつ始点である。スイングの各部分は常に動きの答案(ひとつ前の動きが上手く行ったか)でもあり、出題される問題(次のどのような動きであるべきか)でもある。

我々は自由意志でスイングしていると信じている。しかしもしかするとトキソプラズマに寄生されている可能性も捨てきれないのである。その上手くいったゴルフスイングは自分のせいか、それとも何かに寄生されているせいか。無意識で何かが起きているかを知り尽くすのは困難である。

2016年5月22日日曜日

練習場より 2016.05.22号 - 五輪の書、風之巻 第8 右脇腹の事

複雑な運動をコツとして捉える時は結構単純な所に視点がフォーカスされたりして、それさえ叶えれば上手くいくという風に理解することが多い。さて、コツとはなんだろうかと考えると、それはタイミングではないかと思ったりもする。

色々な試行錯誤の末に辿り着いた、自然なスイングが出来たと思う時、はて、これをどう表現すれば良いのだろうか、これ以上の分析はもう不可能な気がする、という場所に辿りついたりするものである。

それをもう一度、少しずつ分解してみて(運動を微分してみて)、それは一体どういう運動の組み合わせなんだろうか追及してみる。もちろんそれが完全な解明とはならない。完全など不可能だと思うのだけれど、それでも、このこれとあれをきれいに連動すればうまくいくという感覚が見つかるものである。

当然だが、その他の部分が前提条件である。それらが想定通りの連動してくれていなければ成立しない。例えば、和建築の土台に西洋建築を建てようとするのは無謀であろう。建てたければ意識化しておかなければならない。それはギリシア建築であろうと、近代建築であろうと同様だろう。

前提条件とは意識されていないものも含めて土台である。古典芸能を鑑賞する時、基本的な知識が要求されるのと似ている。昔はそれを教養と呼んだ。現代のように知識の流動性が激しい時代には、古典芸能に求められる知識のプライオリティは低い。それがハードルの高さとなる。囲碁というゲームも同様であろう。時間をかけて身に付ける時間が今や乏しい。

この前提条件を全て記述(意識化)するのはまず不可能であろう。だからコツというものは、全ての人に対して、すべての状況に於いて有効とは言えない。となると、各人が積み重ねてきた歴史が入りやすさに対してとても重要な意味を持ってくる。

五輪の書、風之巻 第8
一 他流にはやき事を用る事。
兵法のはやきと云う所、実の道にあらず。
はやきといふ事ハ、
物毎のひやうしの間にあはざるによつて、
はやき遅きと云こゝろ也。
其道上手になりてハ、
はやく見ヘざるもの也。
たとへバ、人にはや道と云て、
一日に四十五十里行者も有。
是も、朝より晩迄、はやくはしるにてハなし。
道のふかんなるものハ、
一日走様なれども、はかゆかざるもの也。
乱舞の道に、上手(の*)うたふ謡に、
下手のつけてうたへバ、おくるゝこゝろ有て、
いそがしきもの也。
又、鼓太鼓に老松をうつに、静なる位なれども、
下手ハ、これもおくれ、さきだつこゝろ也。
高砂ハ、きうなる位なれども、
はやきといふ事、悪し。
はやきハこける、と云て、間にあはず。
勿論、おそきも悪し。
これ、上手のする事ハ、緩々と見ヘて、
間のぬけざる所也。
諸事しつけたるものゝする事ハ、
いそがしくみヘざるもの也。
此たとへをもつて、道の利をしるべし。(1)
殊に兵法の道におゐて、はやきと云事悪し。
是も、其子細は、所によりて、
沼ふけなどにてハ、身足ともにはやく行がたし。
太刀ハ、いよ/\はやくきる事悪し。
はやくきらんとすれバ、扇小刀の様にハあらで、
ちやくときれバ、少もきれざるもの也。
能々分別すべし。
大分の兵法にしても、はやく急ぐ心わるし。
枕を押ゆると云心にてハ、
すこしもおそき事ハなき事也。
又、人のむざとはやき事などにハ、
そむくと云て、静になり、
人につかざる所、肝要也。
此こゝろ、工夫鍛錬有べき事也。


ゴルフでスイング速度を貴ぶのは、勘違いである。
速さとは物毎の一瞬のタイミングという刹那にあって、早い遅いとはこのタイミングの事である。
メジャーを取るような人のスイングは早いようには見えないものである。

例えば、ウッズという人がいるが、彼の飛距離は290も300ヤードも飛ぶ。
だが彼も朝から晩までひたすら早く振っているわけではない。
ここが分かっていないと、トップからフィニッシュまでひたすら早く振りまわせばいいと思うが、それでは上手く行かないのである。

カラオケで、上手な人の歌と一緒に歌うと、未熟な人は歌に合わせようとするから、遅れまいとして忙しく感じるのである。
また、バラードは静かに感じるけれど、未熟であると、これも遅れまいとして、先に先に行こうとする。

ロックは、急な歌だけれども、早いというのは悪いこととされている。
「早きはこける」と言われているとおり、逆に拍子に間に合わないのである。
勿論、遅いのもダメである。

これ、上手な人は、ゆっくりとしているように見えて、タイミングはドンピシャである。
どんな事でも上手な人のする事は、忙しいようには見えない。

この例えを以って、早さについてよく考えなければいけない。

殊にゴルフの道においては、振り急ぐは悪し。

これが様々な場所場所に顔を出してくる。

遠くに飛ばそうとすれば、身足ともに早く行こうとする。
ドライバーを、いよいよ早く振ろうとする。
早く振ろうとすれば、ウェッジ、パターの様にはいかず、ちゃくと振れば、少しも飛ばないものである。
ここのところ、能々分別すべし。

ゴルフにおいて、早く急ぐ心は良くない。「枕を押す」と呼ばれる心とは、後の先みたいなもので、それからでも少しも遅くはないのである。ただ、これはゴルフには関係ない。どちらかと言えば敵ではなく自分の枕を押すべきであろう。

同じ組の人がぶん回して上手く行った時などは、「背く」という教えの通り、それを超えようなどとは思わず、静かにして、相手に合わせないようにすることが肝要である。
この心は工夫鍛錬できるものである。


さて今のところの総決算である。次の要素に重要と思ったので記述しておく。

  • 上半身の前傾姿勢は崩さない
  • スイングの時は右脇腹が動く

スイングと右脇腹のどちらが先に動くかは分からない。少なくともこのふたつは連動して動くようである、それを見つけたと思う。

右脇腹は、上半身の回転ではない。しかし、その場所に留まっているというものでもない。トップを作るときに必要だった場所から退避する感じである。

それが自然と上半身の動きをスムーズにするように感じられる。それは回転ではなく、ロックを外すという感じである。左側に回転しようとしているなら、右脇腹の動きは間違えている。少なくとも、体の左半分は回転しようとしてはいない。

兎に角、これまでで一番良い感じが出来た。ようやくスタートラインに立てたと思う。

2016年5月4日水曜日

練習場より 2016.05.04号 - 肩関節の可動域と脇を絞めろ

鋼鉄ジーグやガンダム、エヴァンゲリオンを見てきたせいで、肩の関節は自由自在に万能に動くという思い込みがある。

確かに肩の可動域は高い。上から下まで腕は回せるし、前から横へも自由自在である。

肩関節は、股関節と共に可動域の広い関節である。それは肘と比べれば明らかだろう。肘や手首が一方向にしか曲がらないのに対して、肩の可動方向はずっと多い。

手の位置は次の組み合わせで決められる。
  1. 肩の可動域(肘の高さ)
  2. 肩の可動域(肘の前後)
  3. 肘の角度
  4. 手首の角度

僕たちは自由に手を移動できるから、肩の関節も肘の関節も自由にどの角度でも動けると思い込んでいるようだ。

ゴルフのトップでは肩の関節も上方向に移動する。だが肩の関節は自由自在の軌道を取れるわけではない。上にある関節を下に移動する時、取れる軌道は、数個しかないのではないか、と思われる。

そうすると、トップからスイングへと転調する時、肩がどの軌道を通り道とするかは意識しなければならないはずだ。

どのような軌道を通っても同様の速度で移動できるというのは勝手読みというものだろう。軌道が違えばスイング速度も変わるはずだ。これは肩の筋肉の付き方が大きく影響するに違いない、という話である。

筋肉につき方は動きに対して負荷となる。最大となる軌道と最小となる軌道があるはずだ。

更には、肩関節をどこまで上に上げるのが適切であろうか。肩関節はできるだけ下にしておく方が望ましいと思う。

少なくとも肩より上に上腕骨を上げるべきではない。角度にすれば40度よりも下。

これはスポーツでは脇を絞めろという話でもある。

脇を絞めるというのはあくまで結果の状態である。それをするために筋肉を動員すべきではない。脇を閉めろの正しくは、肩の関節を上に上げなければ、脇は締まった状態になる、ではないか。

肩の関節の位置を上と下で分類する。更に細かい分類も可能であろうが、まずはそれくらいに大きく分類しておけばいいだろう。

そのうえで、どの程度まで上に上げても良いかは運動にとってとても重要であると思うし、動く時に通る軌跡はひとつに決まるだろう、くらいに思っておく方が吉と思われる。

2016年5月1日日曜日

練習場より 2016.05.01号 - 纏わりつく腕

理想がたとえ幻想に過ぎないとしても昨日のスイングは理想と呼べるものだった。

それでも開眼したなどと言う気はない。仏教徒はゴルフをした事がないから、簡単に悟っただの開眼しただの言うのである。昨日まで分かっていなかった事を今日は知る事ができた。しかし明日になれば、また分からなくなっているものである。スイングとはそういうものだ。

今日悟ったから明日も悟れているなどと思ってはならない。悟りは蓋を破るようなもので一度破ったら二度と元に戻れないものなのか。それとも、ドアを開け部屋から出てもまたドアが閉まるようなものか。

それでも、これと思ったものを記録に残し参考にしてまた組み上げて行くのは決して無駄とは思わない。ダンテだって地獄の見聞を記録にしたから今日まで残っているわけである。

さて、スイングを今はふたつに集約している。
  1. スタンスの時は前傾姿勢を最後まで維持する
  2. スイングには角運動量保存の法則が働く

前傾姿勢を維持するとは、腕の通る空間を空けるのと同じである。まっすぐ立てば腕を横には振れない(体が邪魔をする)から、体を邪魔にならないように前傾姿勢を維持する。この時、スイングの間に体が伸び上がるのはよくないようである。最後まで前傾は崩さない。

角運動量とは、フィギュアスケートのスピンである。腕を前に伸ばせば回転は遅く、畳めば速くなる。ゴルフスイングも同様であって、クラブは回転運動をしているから、この法則のように動くのである。

人間の運動は単純な回転ではない。幾つもある回転軸が複合的に組み合わさって、スイングを形作る。話は極めて複雑である。だが複雑なのは物理学ではなく、206本もの骨で構成された人間の体の方である。

それでも角運動が教えることとして、回転を早くしたければ回転の半径は小さくするべきなのである。インパクトに近づくほど半径は小さくなるべきなのである。回転の半径が小さくなれば回転速度は大きくなるからである。

だがこの近づくという概念がまた難しい。と言うのも、近づくってどこへ、という話が恐らく個々人で違うのである。その位置をようやく見つけたとしても、次の日は別の場所に変わっているかも知れない。体調や疲労によって場所が移動する可能性は高い。固定していないのなら、一度の悟りで済むはずもないのである。

雰囲気としてトップから体の側面を纏わりつくように腕が下りる。インパクトの瞬間にはアフリカオオコノハズクのように腕が腰の位置辺りで細くなるイメージ。

ドライバーなどの長いクラブは、この感覚に更にべつのものが加わる。それは一直線の後に、クラブと体が一緒に動く感じである。前傾姿勢を崩さないが動いてはいけない訳ではない。クラブが要求する力や速度に応じて、前傾のまま左右に移動するのは構わない。

クラブの軌跡はいざ知らず、腕の軌跡は回転ではないと思う。後ろから一直線に通り抜けて行くという感じがする。

これはただ一日の理想である。明日には祇園精舎の鐘の音。諸行無常の響きあり、として朽ちるのである。

2016年4月12日火曜日

練習場より 2016.04.12号 - クレーンの原理

人間の(動物、植物、単細胞生物でも同様だが)体の使い方は効率を追求したような所があって、それを生物の進化と呼んでも差し支えあるまい。進化とは効率の追求である、とも言えよう。

多くのスポーツが前傾姿勢を構えの基本として取るが、これも効率の追求の結果と考えるのが妥当である。だから前傾姿勢とは言えども重心が下半身の支えから大きく外れているわけではないのである。

重心がバランスを決めるので、動きという点で重心の取り方は重要である。例えば、重心の移動によって体は動く。その時、重心の移動する方向とは反対方向へ急に方向転換できるものではない。ニュートンの力の法則を無視できないからである。

慣性の法則(第1法則)
力が作用しない限り、静止または等速直線運動する。

ニュートンの運動方程式(第2法則)
加速度は、力に比例し、質量に反比例する。

作用・反作用の法則(第3法則)
作用する力には大きさが等しく逆向きの反作用の力が働く。


運動をスピードに着目すれば +100km から 0km そして -100km というような運動をすることは想像上では自在である。しかし UFO のような未知なるテクノロジーならいざ知らず、現在の我々の物理学ではそれを無視するかのような動きをすることは不可能と言える。

つまり、急激な方向転換をしたい場合も、それは物理学に則て行うという事であって、それは詰まる所、回転運動を含まざるを得ず、いかに回転と直線の組み合わせで動きを構築するかという話が結論である。

これは激しいスポーツにおける基本的な考えであって、ゴルフとは余り関係ない。ゴルフでは咄嗟に体勢を変えたり移動するような動きはほとんど不要だからである。

だが、ゴルフのスタンスも、上半身は前傾姿勢である。これを支えるのは腹筋であり、ボールと下半身の間に重心を置くのが良い。

つまり、体の重心は、下半身から外れているため、それを腹筋で支える必要がある。その姿勢をずっと取っていればあっと言う間に腹筋が疲労して辛くなるのが当然である。

このように、自分の前にある空間を体で抱え込むようにスタンスするだけではなく、スイングの間も、その体勢は崩してはならない。これがスイングの肝要と思う。

前には常に倒れこむような重心の取り方をしたまま、右から左へクラブの移動が行われる。これを支えるのは腹筋のみであって、ここで楽をしようと、重心を後ろに下げたり、最初から、重心を下半身から外さないでいるのは、恐らくスイングにとっては、得策ではないと思われる。

なぜ重心をずらすのが良いかと言えば、足は地面に接地している。その真上に重心がなく、地面と重心がズレている事で、例えばテコ的な、例えば角運動量のような、何らかの力学的意味が加わると思われるのだが、それが何であるかを説明できる所には至っていない。

それでも重心をズラせばそれを支えるための緊張が体幹で必要となり、緊張した筋肉群をひとつの大きな棒状の塊と見做せるようになる。当然ながらそれらは一切動かないわけではなく、細かな運動の連続であり、その細かな動きが、おそらく梃子のような力(力を強化するが移動距離は短くなる、またはその逆)をクラブの運動に与えているのではないだろうか。

重心をずらす事のメリットには、更に、腕の軌道が良くなる事が挙げられる。抱え込んだ空間を通る時、腕はかなり自由に動くことができる。それはクレーンが支柱の真上ではなく、必ず斜めの腕が伸びているその先に付いているのと似ている。そうすることで腕は比較的、肩に邪魔されずに動けるのである。

それによって生じた自由な軌道空間でスイング中の腕が邪魔されないという事は抵抗が少ないという事である。抵抗が少なければ、それだけスイングの力は減衰しないはずである。

といく方向で今週末はゴルフに行く。

2016年3月12日土曜日

GOLF 2016.03.12号 - 意識と無意識の境界で

スイングは二通りしかないわけじゃない。

意識して打とうとすれば、意識が足枷となって自然さが損なわれる。しかし、無意識で打てば、大切なポイントを忘れて不合理に陥る(かも知れない)。

そのどちらかでしか極められないと思っていたが、そうではない。練習場と違って、斜度も地面の硬さも異なるコースでは、様々な状況が起きる。そういう状況の変化は意識した方がよい。

スイングが悪くなった時に、どう元の感覚を取り戻すかは、実はやってはいけないマネージメントであって、練習不足を本番で嘆いても既に手遅れである。それは意味がないだけではなく、より悪い状況をもたらす可能性が高い。それは次のふたつの理由で説明できる。
  1. 練習通りには行かないのを受け入れらない精神的脆弱さの露出
  2. スイングをその場で訂正できると考える無知、無能、筋の悪さ

スイングが悪い時に、精神も頭脳も劣悪と来た日には、どんな結果が待ちかまえていると言うのか。

健全な精神は健全な肉体に宿ると言うが、こんなもの嘘っぱちである。そもそも論で言えば、まず健全の定義から始めなければならない。つまり、精神の健全さと肉体の健全さは同一と言えるのかと言う問いである。

車に例える。ドライバーの能力は車のポテンシャルを超えることはできない。強いAI囲碁は強力なコンピュータを必須とする。だが、車のポテンシャルが高いことがドライバーの能力を決定するのではなく、強いコンピュータならば全てが、強いAIとなる訳ではない。

同様に、健全でない肉体にも健全な精神はありえるし(健全な精神の定義も必要だが)、健全な肉体に劣悪な精神もありうる。これは組み合わせの問題である。

精神肉体
健全健全
健全劣悪
劣悪健全
劣悪劣悪

これは、ユウェナリスの言葉とされているもので、別に宿ると言ったのではないらしい。
It is to be prayed that the mind be sound in a sound body

健全な肉体の中で精神が健全となるよう望む

それもラテン語で。彼の方言までは知らない。

この言葉は歴史の中で便利な言葉だった。それが意味する所は、人間は精神と肉体の二元論で考えるのが便利だである。ふたつに分けて考える、は他にもたくさんある。

脳は、肉体と精神をどう認識しているか、という問いは重要である。脳の機能のひとつに精神があると仮定し、ここでは魂は考慮しない。魂がゴルフに与える影響は、スイングとは関係ないからである。脳が自分をどう認識するか。それは精神としてである。その一方で他人を見れば、脳はそれを肉体として捉える。

よって脳は他人の中にも自分と同じ精神があると推定する。その前提が正しいものとして行動を決定する。そして自分の体をコントロールするのは精神であると結論づけているはずである。

もちろん、意識は自分が食べたものをどういう化学変化で処理して糞便にするかは知らない。だが脳がその指令を出している。つまりその方法を知っているのである。

こうして脳の認識の中には肉体と精神が別々のものとして出現する。そして精神は寝たり気を失ったりすることから消えるものである。寝ているときは精神は消滅する。しかし夢から覚めれば復活する。と言うことは精神が休んだ時も、人の中にあって、人を動かす仕組みがあるはずである。それは死んも消えてしまうものである。これを合理的に説明するならば魂という存在が必要になる。

ユウェナリスの言葉を脳の立場で訳せば、健康で健やかに過ごせたら、それでもう十分じゃないか、となるのではないか。

さて、穏やかの反対にあるものが熱狂である。熱狂によって精神は高揚する。しかし肉体はそれに関しては無頓着である。

意識と肉体は決して互いのすべてを知っているわけではない。特に意識はそれについて知らない。しかし、それは全て脳の中で起きている。

つまり、自分にとって、ゴルフスイングの全てを意識的に行うことは不可能だし、すべてを無心に意識せずに行うのも違うと思う。この精神と肉体はどちらも欠かせない。だが、これは意識の見方であって、脳を客観的に見れば、脳とは臓器である。かつ精神活動の場である。

静的な構造を体と呼び、その活動を精神と呼ぶならば、それは腕にも、骨と筋肉と関節という構造があり、それが筋収縮によって様々な運動をするのと似ている。

構造と運動。このふたつを意識と無意識と呼んでもいいだろう。
  • 構造
  • 運動

もし、意識だけなら、無意識が足りない。無意識だけなら、意識が足りない。構造だけでは運動が足りない、運動するには構造が必要だ。ふたつは密接に関係しあいながらも、意識は意識に、無意識は無意識に任せる、という状態にあるべきか。

スイングは、少なくともその両方(他にもあるかも知れない)を含んでいる。

スイングには物理学的要請があり、それを構造と呼ぶ。その上で運動が起きる。意識は構造を支配し、無意識は運動を支配する。

兎に角、いま気を付けていることは、スイングは前傾姿勢を保つべきであるという点だ。ボールを打ち終わっても前傾姿勢は崩してはならない。これが肝要である。これが信仰である。

だが、その信仰はコースの上では数多くのトップを生む結果となった。僕はこれをよい兆しだと密かに思っている。明らかに何かが変わった証拠だからである。それ以外の根拠はない。

2016年2月22日月曜日

練習場より 2016.02.19号 - なぜスイングを意識したいのか

車のギアチェンジを意識せずに、体が勝手に動いてコントロールできたら気分がいい。気分がいいのは脳がそれを効率的と認めたからである。脳は効率の良さに興奮する。そしてニューロンは強化される。これが脳の価値観のひとつである。

その価値観はゴルフのショットでも同様のはずである。所がゴルフスイングでは意識してコントロールしたいという思いが強い。そこが車の操作とは違う。ゴルフスイングでも勝手に自然と体が動いた方が良さそうなのに、それと反発しようとする意識がある。

それは何故だろうかと考えた。

そこから得た結論は、車のマニュアル操作は何が効率的であるかが明白である、に尽きた。目標がひとつに決まっている。それはスムーズさである。つまり、究極は時間である。狙った位置に最速で移動すればよい。それが気持ち良さの正体である。究極は速度に極まる。その操作に意識の介在は少ない。少ない方がよい。意図した瞬間には既に腕が動き終わっているくらいで丁度いいのである。

こういう動作は基本的には何回か練習すれば身に付くものである。もちろん、プロのレーサーのそれは、ギア比やパワーロスなどの精度が全く違う。動きは似ているとは言え、気にしている事も筋肉の使い方も全く違うかも知れない。それはスズメバチとヒラタアブほどの差があるかも知れない。

自動車の運転とゴルフスイングは少し違う。ゴルフスイングの価値は速さではない。遠くに飛ばしたければ速度が重要であるが、それが究極の目標になるわけではない。スイングは、距離、方向、ボールに与えられた回転など複雑な運動をボールに与える。

自動車が早いというのは、ボールが飛んだという事であって、ゴルフスイングによって得られた結果が良いことと、ゴルフスイングが上手くできたという事は違う。上手く振れても結果が悪いこともあれば、ヘボくても良い結果になる事もある。

つまり、スイングを無意識で動かすには、何かが足りないのである。それを脳は意識と呼ぶ。意識とは不足したものを探そうとする働きであろう。何かを見つけようとする方が見つかる可能性は高くなる。

何をどうコントロールして良いかが脳がまだ分かっていない状態。その何かを脳に教えなければ、ゴルフスイングは完成できない。そういう状況にあるのだろう。それを満たさなければ気持ちいいにはならないのである。

ではゴルフスイングの意識とは何であろうか。
  1. ひとつ、飛ばすためには体とクラブをどう動かすべきか。
  2. ふたつ、方向性を決定するには体とクラブをどう動かすべきか。
  3. みっつ、スライス、フックを打ち分けるには体とクラブをどう動かすべきか。
  4. よっつ、バックスピンするには体とクラブをどう動かすべきか。
  5. いつつ、回転を強くするには体とクラブをどう動かすべきか。

意識できれば完璧にできるわけではない。体が勝手に動くのが完全なスイングでもない。トッププロでさえ必ず成功できるとは言えない。それでも自分が気持ちいいと感じられるスイングになれるよう目標を持つのが良いと思う。

意識してスイングしたいという欲求は、脳からの、だけど、どう打てばいいか分からないよ、というメッセージである。それを解決すれば、脳は、自然と体を動かすようになる。意識の介入を必要としなくなる。

体が覚えるという効率の良い気持ちよい領域に這入れる。意識してやっているうちは、まだ未解決の何かが残っているのだ。少なくとも脳はそう訴えている。

シャーロックホームズのように、誰もが注意しない事を、意識して考える、探してみる楽しさは、どのレベルでも味わえるものである。それはゴルフだけの話ではない。恐らく完成というものはない。いつか我々は物理法則さえ変える手段を見つけるだろう。

誰もが自分なりの方法でゴルフスイングを修正してゆく。設計レベルの低い整備の整った機体は、く設計レベルの高い欠陥機に勝る。ポテンシャルだけの勝負ではないのである。

2016年2月19日金曜日

練習場より 2016.02.19号 - 脳は効率化を貴ぶ

例えば、グリーン周りでのアプローチを考える。足りなかったショットは直ぐに忘れるが、オーバーしてしまったショットは、長く印象に残るものだ。

残り距離が例え同じだとしても、印象の強さは全く違う。同じミスであるのに何故こうも違って感じるのか。それを脳は効率化を貴ぶからだと解釈すれば納得できる。

効率化とは、最短時間でとか、最小の力でかあるけれど、一般的には最小のエネルギーだ。ある目標を達成するのに投入されたエネルギーが最小であることを良とする。これは生物の史上命題でもあって、エネルギーを常に外部から取り込まなければならない生物にとって、その効率の優劣は死に直結する。

効率の観点からショートとオーバーの失敗を分析すれば、ふたつの間にある違いは明白である。

目標までの距離を10と仮定する。足りないショットはその足りないのを加算してゆけばいつかは10となる。

ところがオーバーしたショットは既に10以上のエネルギーを投入していることになる。そこから後戻りしてもエネルギーの総量が減ることはない。

足りないショットでも足してゆけばどこかで目的地に届くうえ、その過程で無駄なエネルギーは使っていない。しかし、目標地点を通り越したショットでは、無駄なエネルギーがすでに投入されているのである。10の距離を行くのに、すでに12も使ったのだ。

よって、足りない失敗よりも無駄にエネルギーを浪費した失敗の方が、効率という観点から強い印象が残るのは自明である。足りないのはひとつの失敗であるが、オーバーしたのは、失敗の上に、無駄なエネルギーを浪費したというふたつの失敗が重なっている。

もちろんここで、急がば回れ、道草にも意味がある、という格言を思い出すのだが、これらの言葉の存在が、逆に言うなら、脳が如何に効率化を最上の価値観としているかの証拠となっている。

大は小を兼ねるということわざが価値を持つのは、超えない方が良いという前提条件があるからだ。価値観の逆転、既存へのアンチテーゼとなっている所に価値があるのである。

届かなければ絶対に入らない、オーバーさせなければ決して入らない。これもパターでよく聞くアドバイスである。それほど迄、ショートには寛容でも、オーバーには繊細なのだ。

過ぎたるは猶及ばざるが如し、孔子のこの言葉は逆に超えた事への戒めとなっている。たすきに短し、帯に短しもちょうど良さへの回帰である。

これらの言葉は、超えたなら良しとするゴルファへの戒めとなる。ショートを克服したら、次は、超えたから良しとするようになるのである。

よく攻めた。失敗してもこれならナイストライ。それを脳が受け入れてしまう。それで良しとしてしまう。目的が脳の効率化の克服に変わったからだ。

足りないのが悪いは誰にでも分かる。しかし、超えてしまうのもやはり良しとは言えない。その自覚がなければ、次第に超えることだけが目標になってしまう。

人間の脳が持つ自然さ、錯覚の多くもそれが原因で起きてしまうのであるが、効率を追求しようとする脳の癖も、その自然さの一つであろう。自然のまま働かせていては、ショートした、オーバーしたという印象だけが残ってしまう。

それは脳が錯覚したのだ。脳のそういう自然さと言うものは当然だがゴルフというゲームを理解できない。本能に近い所で自動調節機能として働いているそれは、個々の運動の効率化を採点しているだけなのだ。

だからそれだけを働かせない。如何に効率的に近づけるかだけを考えるから、足りない方が良いと信じてしまう。そうではなく、目的は次に最も打ちやすい所はどこか、そこに移動すると考えるべきなのだ。

もちろん、次のパター数が 0 というのが最も良い移動である。だが仮にそれを外したとしても、どこにあるのが常にベストであるか、を考えているならば、脳はもうショートした、オーバーしたという言い方をしなくても済むはずである。

次第に言葉からも消えてゆくはずである。

2016年2月13日土曜日

練習場より 2016.02.13号 - タイミングの確認

人間の反応は、外界から得た情報を処理するのに 0.1秒、運動神経が命令を伝達するのに 0.1秒。反応に要する時間は合計で 0.2秒と言われる。

この短い(コンピュータから見たら莫大な)時間に感覚細胞からの到達した電気信号を映像なり音として解釈し、状況を認識し、次の行動を決定する。そこから脳の情報処理のサイクルは最短で 0.02 秒程度と想定する。

人間の生物学的速度に従う限りでは、物理学はニュートン力学で十分であり、それ以上の速度は必要ない。知ることができても反応が間に合わない。アインシュタインの相対性理論を必要とするのはコンピュータであって人間ではない。

脳の処理速度をどれだけ早くしても行動できなければ無駄である。それは効率的ではない。無駄を取り除くのが進化の方向性だから、必要以上の能力は発展しないはずである。

身体に危機が迫った時の情報処理はどれだけ時間があっても足りない。事故の時、まるでスローモーションのように見えたという話も脳のサイクルと無縁ではあるまい。緊急的には、クロック数を上げているのだと想像する。

当然ながら命令が伝達するまでにはタイムロスがある。そこには生理学的に限界もある。情報処理をしても間に合わない事もある。それを回避する方法はふたつ考えられる。

ひとつは諦めてしまうことである。間に合わないのなら見捨てる。これがひとつ目の方法。もうひとつが、間に合わないのなら、間に合うように命令を出せばいいじゃない、という方法である。

つまりタイミングを合わせるのは、反応によって起こすのではなく、予測に基づいて、あらかじめ命令しておくことである。

例えば野球でフライが飛んでくる時、刻々と変わるボールの情報に反応するのでは遅い。最初の情報から予測し移動を開始する。そういう方法で間に合わせるのである。

このとき、予測する精度は最初は大雑把でよい。それを何度も経験することで学習し蓄積する。過去の情報に基づいて、予測を立て、先に命令を出す。

経験のフィードバックが下手だと何回やってもボールが取れないという事になる。あるタイプの人は、基本的に予測を信頼しないという前提を持つ。予測はあくまで予測であり、それが外れた場合のことも考慮しなければならない。

そういう人はフライを取るのが苦手だろう。逆に言えば、外れても良いから予測に従うよう振る舞えば、捕球も上手くなるだろう。もちろん、最初に持っていた懸念は常に付きまとう。それが大切な場面で現実のものになったりするのだ。

それでも、予測は外れるとしても、刻々と変化する状況に微調整して修正してゆけば良いのではないか。ボールの運動が予測不能なカオス的なものでない限り、この考え方で対応できそうである。それを微調整など無駄である。確定するまで動けないという方法論を採用すれば、間に合わない状況があるのも確かだ。

ゴルフのスイングもタイミングを取るには、前もって命令するしかない。微調整するにはスイングは余りに一瞬である。

あらかじめ命令を出しておくので、感覚的には、それが到達した時には遅すぎたのではないか、早すぎたのではないか、と感じるのは当然である。しかし、それが物理学的には丁度いい場合もある。感覚と実際との乖離は、神経の限界速度あたりでは極めてグレーな精度でしか把握できそうにない。

当然ながら脳もその影響を受ける。遅すぎたか、早すぎたか。これを確認する方法がない。結果から、迷いながらも試行錯誤を繰り返すことになるだろう。

決定的な証拠がないから、疑念を持つのは当然であるし、それは合理的な疑いだが、とても重要なことは、体感では恐らく知り得ないという事である。

よってこれは実感によってなど確認できるものではなく、過去の経験から、こういう場合は上手くいっている、こうなったら上手くいかない、これは悪い予兆だ、無意識の中から何かを訴えてきている、という声に耳を傾けけるしかない。

それでも人間の体調は日々変わるものだし、筋肉の疲労や衰えがある。過去の経験がいつまでも同じように使えるとは限らない。

当然ながら、これは経験であるから、あくまで個人的なもので、正しいと証明できるようなものではない。常に疑念を抱えつつ情報処理するしかない類のものである。これを前提にスイングのタイミングを取る。

2016年2月11日木曜日

練習場より 2016.02.11号 - 右足の太もも

腕を振り回すとき、適切な弧がある。距離が長すぎでも短すぎてもよい回転は得られない。個体差があるので体格や筋力によって異なるだろうから、軽く振りながら適切な位置を模索するしかない。

それが自分の理想とする円周よりも小さくなったとしても、それは受け入れるしかない。ある意味でスポーツとは己の理想が物理的制約によって屈服させられるものだと定義付けても良い。

基本的にスポーツは負けているのである。テレコキネシスで何かを動かせるわけでもない、岩石を破壊するだけの筋力もない、例え壊せたとして、それに耐えられるだけのカルシウムの結合など存在しない。

航空機は、3次元の空間で三つの方向に回転しようとする。それぞれをローリング、ヨーイング、ピッチングと呼ぶが、進行方向にX軸を引けば、ローリングとはX軸(進行方向)、ヨーイングとはY軸(上下方向)、ピッチングとはZ軸(左右方向)への回転である。

もちろんゴルフではこんな回転は起きないが、長い棒状の物には自然と回転しようとする力が生じる。それはシャフトのトルクもそうだし、スイングも回転である。

思えば何もかもが回転しようとしているらしい。量子からしてスピンするし、ボールも回転しながら飛ぶし、地球も自転しながら公転する。力が加わったとき、重心のわずかなズレが回転運動をするのだろうか。だとすれば、ゴルフクラブが回転しようとするのは自然の理である。

回転により、ある空間内で最大の力を得ようとするのがスイングの目的であるが、最初の構成要素が自分の体である。身長1mの人が3mの弧を描こうとしても無理があるように、最適値にある方が、そこから外れるよりもパフォーマンスは良い。

ただ問題となるのが人間はどれが最適解かを知りえない事である。それが最高のパフォーマンスなのか、それとも、もっと良い解があるのか。それを誰も知りえないのである。アルファゴが人間には思いもよらぬ手を打った様に、世界のトッププロでさえ、考えていない手がある。今の自分の考えている手が最上という証拠などどこにもない。

いずれにしろ、ひざを痛めていたので、これまでは片足だけでスイングしていたようなものである。片足軸に近かった。

それはケガした足を更に悪化させたくなかったからであって、それには合理的な理由があった。しかし、右足をスイングに参加させる方がよさそうである。

ではどうするか。少しだけ参加させることにした。スイングの時に、意識して右足の太ももに力を入れるようにしてみた。単に筋肉を収縮させるだけで、何かを踏んだり蹴ったりする必要はない。

それでも劇的に変わるのである。ただ力を入れるだけで、体全体の何かを変える。

筋肉が緊張すれば、体を固定する働きが生まれる。それは外部に対して力を与えなくとも、体の中に支柱を建てるような効果があるようだ。

打つ時に、体幹を支える左右の動きが両足によって固定される。従来、それを片足だけで支えようとしていたのに両足を参加させたようなものだ。

それがスイングの安定をもたらすのみならず、力をボールに伝えやすくするようだ。これらの効果をもたらす体の安定性は両側の太ももの筋肉を使うことで実現できるようだ。

そうすると、足に障害を持っている人は、この働きができないという事になる。体を安定させるのは必要なことだから、両方の太ももを使うのとは別の方法を探し出す必要がある。ゴルフは健常者だけのものではないから、こうして色々な発見があるのは楽しい。

2016年2月7日日曜日

練習場より 2016.02.07号 - 肩こりと筋肉の緊張

多分であるけれど、筋肉は常に緊張状態にある。椅子で寝ても落ちないのはその証拠だろう。死体ならずるりと落ちる。

脳は寝ている時も筋肉の緊張を司る。脳がそういう指令を出しているのだから、随意筋と言えども意志の自由になるとは限らない。脳は意識に叶った動きをするが、意識が筋肉の全てに命令を出しているわけではない。

だから脳の命令を邪魔するように意識が介入すれば、運動全体のバランスは崩れるだろう。脳は瞬時に応対しようとするが、それにも限度はある。

意識が筋肉の緊張を完全に取り除くのは難しいように思われる。ヨガがそういうのを目指しているかは知らないが、脳には脳の都合がある。意識は自分が主人だと思っているが、脳が彼/彼女を主人だと思っている感じはない。彼/彼女は与えられた仕事をただこなす為だけの存在にも見える。

同じ姿勢を続けたり、痛めた場所を庇い続けていると、脳はその緊張を解く時間が作れない。これがコリの原因ではないか。

腕立て伏せや懸垂をしていると疲労によってそれ以上続けられない状態になる。疲れれば、運動をやめる。短期的な疲労はこうやって回復できるが、おそらく肩こりは長時間に渡る軽い疲労の蓄積だろう。

疲労は血行によって解消されると言われるが、もちろん血が止まれば壊死するのだから、血行は滞っていないはずである。という事は血行だけでは疲労は回復できない。

肩こりが原因として頭痛が起きる。気分が落ち込む原因にもなるだろう。そういう時には、柔軟体操やラジオ体操をしたり、スポーツで気分転換をはかったり、マッサージを受けたりする。

このメカニズムについて自己流に考えてみた。すると重要なのは、緊張を如何に解除させるかという所に行き着いた。これは別の言い方をすれば、脳が出し続けている命令を如何に停止するかである。

脳は必要であるから命令を出しているはずである。これは姿勢を維持するためであろうことは間違いなく(何らかの障害によって麻痺が起きている場合は除く)、これを解除するには、いくつかのパターンがある。もちろん、姿勢を変えれば治るだろうが、その方法で治ったケースは殆どない。

基本は脳に別のことをやらせる事である。他に対処しなければならないシチュエーションを生み出す事で、緊張をほどく。緊張が瞬間的にでもほどければ楽になるのだ。脳が忙しい状況になれば、プライオリティの低い命令から面倒を見れなくなってゆくはずだ。その中にコリの原因となっている緊張せよが解除できれば十分である。

咄嗟に反応しなければならないような状況に置かれれば、例えば危険を伴うような、脳はそれへの対処のために集中する。それは他への意識がなおざりになるという事でもある。こうして必要性の低い命令は脳自身も忘れるのではないか。そういう状況を作れば解消できるのではないか。

その代表的なものはスポーツではないか。こけたり、倒れたりしている間に次第に調子が良くなっていくのではないか。脳が危険に対処する他の例には、事故や、風邪などの病気も考えられる。風邪から回復したときに、なんとなく体が軽く感じるのは、そういう理由もあるのではないか。

その他として、痛みへの対処で緊張が解ける場合もある。代表例としては足つぼマッサージがある。痛みをある場所に与えると、脳は痛みへの対処を優先するため、他の場所への命令を解除するように思える。痛みが収まればまた命令を出すとしても、数秒でも緊張がとければ楽になるものである。

整体やマッサージではツボを刺激することで、緊張を取る。神経を刺激する事で脳からの命令を混乱さえているのかも知れない。神経への刺激という点ではセックスも同様で、絶頂に達することで脳は緊張を解除しているのではないか。

  1. ツボ外し - 「そこにツボはないんだけどなぁ」
  2. 方向違い - 「場所はそこでいいけど、ちょっと方向が」
  3. 深さ足らず - 「そこそこ、もっと深く押して」
  4. 力弱し - 「そこそこ、もっと強く押して」
  5. 回数足らず - 「もっと何回も押して」

スキーで右足の前十字靭帯を損傷をして以来、常に右足をかばう生活をしてきた。その命令は強く、歩くにも走るにも、ゴルフのときも、右足の保護が最優先だ。

だから、右足を使う時は、ひざをひねらないように注意し、固定するようにしてきた。ところが、どうやら右足の筋肉と、左肩、左肩甲骨の筋肉は連動しているらしい。右足を使わないことによって生じたアンバランスを、脳は左肩の筋肉を緊張させることで取っていたようである。

逆に、右足の筋肉を使う、例えば、右足で一本足立ちして屈伸すると、左肩、背中、首などの緊張が緩むようである。どこかの筋肉が緊張すれば、他の部分が緩む。筋肉への命令はどうやら連動しているようである。

お風呂で浮居ているときに、右足の筋肉を意識して緊張させるだけで良い。負荷をかける必要はない。緊張する命令だけで十分に肩こりが取れる。

さて、単にこれだけでは凝る位置を変えただけに過ぎない。A地点からB地点に変えただけである。そこでどうしなければならないかといえば、緊張する場所を循環させればよい。休息と緊張を繰り返してゆけば、一か所に留まらずに済むだろう。

ということで、右足を使うことが新しい課題である。ひざを痛めているので、それを保護したうえで、しっかり歩く、しっかり屈伸する、右足の筋肉を使うという事を行ってゆく。それが、ゴルフのスイングに影響を与えないはずはないと確信している。