それでも開眼したなどと言う気はない。仏教徒はゴルフをした事がないから、簡単に悟っただの開眼しただの言うのである。昨日まで分かっていなかった事を今日は知る事ができた。しかし明日になれば、また分からなくなっているものである。スイングとはそういうものだ。
今日悟ったから明日も悟れているなどと思ってはならない。悟りは蓋を破るようなもので一度破ったら二度と元に戻れないものなのか。それとも、ドアを開け部屋から出てもまたドアが閉まるようなものか。
それでも、これと思ったものを記録に残し参考にしてまた組み上げて行くのは決して無駄とは思わない。ダンテだって地獄の見聞を記録にしたから今日まで残っているわけである。
さて、スイングを今はふたつに集約している。
- スタンスの時は前傾姿勢を最後まで維持する
- スイングには角運動量保存の法則が働く
前傾姿勢を維持するとは、腕の通る空間を空けるのと同じである。まっすぐ立てば腕を横には振れない(体が邪魔をする)から、体を邪魔にならないように前傾姿勢を維持する。この時、スイングの間に体が伸び上がるのはよくないようである。最後まで前傾は崩さない。
角運動量とは、フィギュアスケートのスピンである。腕を前に伸ばせば回転は遅く、畳めば速くなる。ゴルフスイングも同様であって、クラブは回転運動をしているから、この法則のように動くのである。
人間の運動は単純な回転ではない。幾つもある回転軸が複合的に組み合わさって、スイングを形作る。話は極めて複雑である。だが複雑なのは物理学ではなく、206本もの骨で構成された人間の体の方である。
それでも角運動が教えることとして、回転を早くしたければ回転の半径は小さくするべきなのである。インパクトに近づくほど半径は小さくなるべきなのである。回転の半径が小さくなれば回転速度は大きくなるからである。
だがこの近づくという概念がまた難しい。と言うのも、近づくってどこへ、という話が恐らく個々人で違うのである。その位置をようやく見つけたとしても、次の日は別の場所に変わっているかも知れない。体調や疲労によって場所が移動する可能性は高い。固定していないのなら、一度の悟りで済むはずもないのである。
雰囲気としてトップから体の側面を纏わりつくように腕が下りる。インパクトの瞬間にはアフリカオオコノハズクのように腕が腰の位置辺りで細くなるイメージ。
ドライバーなどの長いクラブは、この感覚に更にべつのものが加わる。それは一直線の後に、クラブと体が一緒に動く感じである。前傾姿勢を崩さないが動いてはいけない訳ではない。クラブが要求する力や速度に応じて、前傾のまま左右に移動するのは構わない。
クラブの軌跡はいざ知らず、腕の軌跡は回転ではないと思う。後ろから一直線に通り抜けて行くという感じがする。
これはただ一日の理想である。明日には祇園精舎の鐘の音。諸行無常の響きあり、として朽ちるのである。
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