例えば、グリーン周りでのアプローチを考える。足りなかったショットは直ぐに忘れるが、オーバーしてしまったショットは、長く印象に残るものだ。
残り距離が例え同じだとしても、印象の強さは全く違う。同じミスであるのに何故こうも違って感じるのか。それを脳は効率化を貴ぶからだと解釈すれば納得できる。
効率化とは、最短時間でとか、最小の力でかあるけれど、一般的には最小のエネルギーだ。ある目標を達成するのに投入されたエネルギーが最小であることを良とする。これは生物の史上命題でもあって、エネルギーを常に外部から取り込まなければならない生物にとって、その効率の優劣は死に直結する。
効率の観点からショートとオーバーの失敗を分析すれば、ふたつの間にある違いは明白である。
目標までの距離を10と仮定する。足りないショットはその足りないのを加算してゆけばいつかは10となる。
ところがオーバーしたショットは既に10以上のエネルギーを投入していることになる。そこから後戻りしてもエネルギーの総量が減ることはない。
足りないショットでも足してゆけばどこかで目的地に届くうえ、その過程で無駄なエネルギーは使っていない。しかし、目標地点を通り越したショットでは、無駄なエネルギーがすでに投入されているのである。10の距離を行くのに、すでに12も使ったのだ。
よって、足りない失敗よりも無駄にエネルギーを浪費した失敗の方が、効率という観点から強い印象が残るのは自明である。足りないのはひとつの失敗であるが、オーバーしたのは、失敗の上に、無駄なエネルギーを浪費したというふたつの失敗が重なっている。
もちろんここで、急がば回れ、道草にも意味がある、という格言を思い出すのだが、これらの言葉の存在が、逆に言うなら、脳が如何に効率化を最上の価値観としているかの証拠となっている。
大は小を兼ねるということわざが価値を持つのは、超えない方が良いという前提条件があるからだ。価値観の逆転、既存へのアンチテーゼとなっている所に価値があるのである。
届かなければ絶対に入らない、オーバーさせなければ決して入らない。これもパターでよく聞くアドバイスである。それほど迄、ショートには寛容でも、オーバーには繊細なのだ。
過ぎたるは猶及ばざるが如し、孔子のこの言葉は逆に超えた事への戒めとなっている。たすきに短し、帯に短しもちょうど良さへの回帰である。
これらの言葉は、超えたなら良しとするゴルファへの戒めとなる。ショートを克服したら、次は、超えたから良しとするようになるのである。
よく攻めた。失敗してもこれならナイストライ。それを脳が受け入れてしまう。それで良しとしてしまう。目的が脳の効率化の克服に変わったからだ。
足りないのが悪いは誰にでも分かる。しかし、超えてしまうのもやはり良しとは言えない。その自覚がなければ、次第に超えることだけが目標になってしまう。
人間の脳が持つ自然さ、錯覚の多くもそれが原因で起きてしまうのであるが、効率を追求しようとする脳の癖も、その自然さの一つであろう。自然のまま働かせていては、ショートした、オーバーしたという印象だけが残ってしまう。
それは脳が錯覚したのだ。脳のそういう自然さと言うものは当然だがゴルフというゲームを理解できない。本能に近い所で自動調節機能として働いているそれは、個々の運動の効率化を採点しているだけなのだ。
だからそれだけを働かせない。如何に効率的に近づけるかだけを考えるから、足りない方が良いと信じてしまう。そうではなく、目的は次に最も打ちやすい所はどこか、そこに移動すると考えるべきなのだ。
もちろん、次のパター数が 0 というのが最も良い移動である。だが仮にそれを外したとしても、どこにあるのが常にベストであるか、を考えているならば、脳はもうショートした、オーバーしたという言い方をしなくても済むはずである。
次第に言葉からも消えてゆくはずである。
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