2016年3月12日土曜日

GOLF 2016.03.12号 - 意識と無意識の境界で

スイングは二通りしかないわけじゃない。

意識して打とうとすれば、意識が足枷となって自然さが損なわれる。しかし、無意識で打てば、大切なポイントを忘れて不合理に陥る(かも知れない)。

そのどちらかでしか極められないと思っていたが、そうではない。練習場と違って、斜度も地面の硬さも異なるコースでは、様々な状況が起きる。そういう状況の変化は意識した方がよい。

スイングが悪くなった時に、どう元の感覚を取り戻すかは、実はやってはいけないマネージメントであって、練習不足を本番で嘆いても既に手遅れである。それは意味がないだけではなく、より悪い状況をもたらす可能性が高い。それは次のふたつの理由で説明できる。
  1. 練習通りには行かないのを受け入れらない精神的脆弱さの露出
  2. スイングをその場で訂正できると考える無知、無能、筋の悪さ

スイングが悪い時に、精神も頭脳も劣悪と来た日には、どんな結果が待ちかまえていると言うのか。

健全な精神は健全な肉体に宿ると言うが、こんなもの嘘っぱちである。そもそも論で言えば、まず健全の定義から始めなければならない。つまり、精神の健全さと肉体の健全さは同一と言えるのかと言う問いである。

車に例える。ドライバーの能力は車のポテンシャルを超えることはできない。強いAI囲碁は強力なコンピュータを必須とする。だが、車のポテンシャルが高いことがドライバーの能力を決定するのではなく、強いコンピュータならば全てが、強いAIとなる訳ではない。

同様に、健全でない肉体にも健全な精神はありえるし(健全な精神の定義も必要だが)、健全な肉体に劣悪な精神もありうる。これは組み合わせの問題である。

精神肉体
健全健全
健全劣悪
劣悪健全
劣悪劣悪

これは、ユウェナリスの言葉とされているもので、別に宿ると言ったのではないらしい。
It is to be prayed that the mind be sound in a sound body

健全な肉体の中で精神が健全となるよう望む

それもラテン語で。彼の方言までは知らない。

この言葉は歴史の中で便利な言葉だった。それが意味する所は、人間は精神と肉体の二元論で考えるのが便利だである。ふたつに分けて考える、は他にもたくさんある。

脳は、肉体と精神をどう認識しているか、という問いは重要である。脳の機能のひとつに精神があると仮定し、ここでは魂は考慮しない。魂がゴルフに与える影響は、スイングとは関係ないからである。脳が自分をどう認識するか。それは精神としてである。その一方で他人を見れば、脳はそれを肉体として捉える。

よって脳は他人の中にも自分と同じ精神があると推定する。その前提が正しいものとして行動を決定する。そして自分の体をコントロールするのは精神であると結論づけているはずである。

もちろん、意識は自分が食べたものをどういう化学変化で処理して糞便にするかは知らない。だが脳がその指令を出している。つまりその方法を知っているのである。

こうして脳の認識の中には肉体と精神が別々のものとして出現する。そして精神は寝たり気を失ったりすることから消えるものである。寝ているときは精神は消滅する。しかし夢から覚めれば復活する。と言うことは精神が休んだ時も、人の中にあって、人を動かす仕組みがあるはずである。それは死んも消えてしまうものである。これを合理的に説明するならば魂という存在が必要になる。

ユウェナリスの言葉を脳の立場で訳せば、健康で健やかに過ごせたら、それでもう十分じゃないか、となるのではないか。

さて、穏やかの反対にあるものが熱狂である。熱狂によって精神は高揚する。しかし肉体はそれに関しては無頓着である。

意識と肉体は決して互いのすべてを知っているわけではない。特に意識はそれについて知らない。しかし、それは全て脳の中で起きている。

つまり、自分にとって、ゴルフスイングの全てを意識的に行うことは不可能だし、すべてを無心に意識せずに行うのも違うと思う。この精神と肉体はどちらも欠かせない。だが、これは意識の見方であって、脳を客観的に見れば、脳とは臓器である。かつ精神活動の場である。

静的な構造を体と呼び、その活動を精神と呼ぶならば、それは腕にも、骨と筋肉と関節という構造があり、それが筋収縮によって様々な運動をするのと似ている。

構造と運動。このふたつを意識と無意識と呼んでもいいだろう。
  • 構造
  • 運動

もし、意識だけなら、無意識が足りない。無意識だけなら、意識が足りない。構造だけでは運動が足りない、運動するには構造が必要だ。ふたつは密接に関係しあいながらも、意識は意識に、無意識は無意識に任せる、という状態にあるべきか。

スイングは、少なくともその両方(他にもあるかも知れない)を含んでいる。

スイングには物理学的要請があり、それを構造と呼ぶ。その上で運動が起きる。意識は構造を支配し、無意識は運動を支配する。

兎に角、いま気を付けていることは、スイングは前傾姿勢を保つべきであるという点だ。ボールを打ち終わっても前傾姿勢は崩してはならない。これが肝要である。これが信仰である。

だが、その信仰はコースの上では数多くのトップを生む結果となった。僕はこれをよい兆しだと密かに思っている。明らかに何かが変わった証拠だからである。それ以外の根拠はない。

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