ある時に気付いたのだが、トップの位置からまっすぐに落ちるという感じが相応しいようだ。腕だけがカクッと折れると感じか。ヘッドが落ちたクラブは、落ちてからボールにヒットするように動く。
クラブはまず右足よりも右側できちんと下に落ちる。次に、落ちてから左に移動する。大雑把に言えば、この2段階に分解できる。
だから、重力によってどこにクラブヘッドが落ちるかはとても重要である。
これはスイングプレーンは円であると意識していては理解し難い考えだろう。
回転運動を円として理解するのは、コペルニクスの説にも認められる自然な考えである。アリスタルコスが唱えてから2000年近くもこれを支持する根拠が見いだせなかった。ブルーノは神という考えからこの説を支持したが処刑されてしまった。
この思い込みから抜け出すには、ティコの膨大かつ正確な観測記録と、ヨハネスのおそらく何年にも渡る試行錯誤の計算が必要であった。彼が見い出したのは楕円軌道であった。
ケプラーの3つの運動式から、アイザックはそれを満たすただひとつの式を導く。それは長く人々に使われてきたが、観測精度の高まりが、次の新しい式を欲した。すなわちアルベルトの登場である。
そのせいかどうかは知らないが、人間は野球のスイングだろうが、テニスラケットの動きであろうが、ゴルフスイングであろうが、円運動として認識する。
常識的に考えれば、人間の体には回転に使える中心軸はない。モーターとは機構が違うのである。それどころか楕円軌道であるための二つの焦点さえないのである。
しかし物理学の効率を追及する限り運動は円/楕円軌道が望ましいはずである。とすればゴルフスイングは複数の回転運動の合成と考えるのが妥当であろう。
背骨で支えられた骨格の人間が回転運動をする時、それはとても複雑な動きをなす。機械ならば簡単にできる回転運動が人間の構造では出来ないのである。
であるから、スイングは幾つかの運動に分解して理解するべきである。この幾つかとは、運動の部分部分で中心となっている場所が移り変わっていると考えるべきだし、また、幾つもの筋肉が時間差を持ちながらこの運動に参加していると考えるべきだろう。
まず下に落下したゴルフクラブ(phase 1)は、そこから横の動き(phase 2)に移動する。イメージは「俺は直角」の直角切りである。
バックスイングからトップ位置にあるクラブは、ダウンスイングで最初は自由落下で下に落とす。このとき、ボールに向かう力を与えるのは正しくないように思える。重力の位置エネルギーで自然と落とした後に、フィジカルの力が与えられるべきだろう。もちろん、この間は0.5秒もないはずである。
下に落ち切ったクラブに対して、強く横に払う運動が加わるとき、それは振り子のような動きではない。それは最初の動き出しだけで十分なはずである。
クラブが下に落ちるまでは最初の動き出しがスムーズになればよく、その点では、自由落下によって、無重力状態に(近い状態に)あるクラブに対して、横向きの力を与えて本格的な加速が始まると言ってよいだろう。
エアーホッケーと同じで無重力状態ならば、与えた力によってスムーズに移動できるわけである。油の敷いた路面で車がよく滑るように、落下によって重量が(見かけ上)減ったクラブならば力を与えやすいわけである。
クラブに力を掛けるには、腕の軌道がとても重要で、そこで重要なのはどれだけ力を入れられるかではない。どれだけスムーズにできるか。重要なのはパワーロスをしないことである。
コースでは体も脳も疲労する。脳が疲労すれば、判断力は鈍る。鈍くても正しく判断できるならばまだよい。普通は間違った判断が連発しだす。ゴルフもまたヒューマンエラーの連続なのだる。
これに対処するには、脳の疲労と鍛えるしかなく、同時に適切な休憩と栄養補給が必要なはずだ。
いずれにしろ、簡単に8だの11打のを叩くようでは話にならない。慙愧。
- GOLF 2016/10/15 - クラブの無重力状態
- GOLF 2016/10/03 - 現在を未来の過去として生きる
- GOLF 2016/07/23 - 無心
- GOLF 2016/06/11 - ホイヘンスと重力
- GOLF 2016.03.12号 - 意識と無意識の境界で
2016年10月15日土曜日
2016年10月3日月曜日
GOLF 2016/10/03 - 現在を未来の過去として生きる
人は未来に向かって生きる。しかし、現実に生きていられる時間は、今という瞬間しかない。だから、いつも人は、一度未来を生きてみて、今という過去に戻ってくる。その来るべき未来に味わった後悔から逃れるために、今に立ち戻り、今をもう一度生きてみる。
ゴルフもまた同じ。スイングをする前に、未来を思い描く。そこには様々な可能性の未来がある。全てが上手くゆく未来。べたっとピンに寄せている自分。距離が足りずにバンカーに入ってしまう自分。大きく曲がり林の中に吸い込まれゆく自分。
様々な成功も失敗も経験した上で、こうはなりたくない、だけれどもトライしてみなければ結果は分からない。それを知った上で、自分はこうチョイスする。そのたった一度のスイングは未来の後悔から振り向いた過去として行われているのである。
後悔したくなければ、それは結果にではなく、今の自分に出来る事にフォーカスするしかなく、それは我を無くしてスイングするという事でもある。
腕の角度も、腰の持ち方も、それぞれはスイングの結果とは何も関係しない。ただ、このスイングを良きものにしたいという考えだけで決定する。最高の結果を求めるし、それは過程によって決定すると知ってはいても、その選択がどのような結果をもたらすかは打ってみなければ分からない。もちろんあらゆる限りの知識を動員して、方向を決め、距離を決め、クラブとスイング径を決める。
だが、それは結果ではない。私たちに残されているのは、考えられる限り理想的なスイングをする事だけである。
クラブがどのように向きを変えるか、それがどの場所で起きれば、パワーロスの少ない最もスムーズなスイングになるか。大切な事は、右足よりもずっと右の場所でそれは行われなければならないという事だ。パターでさえ、右足よりももっと右側でダウンに入っている。
という心構えをしてもコースでは失敗の連続である。その度に、どう微調整すればいいかを考える。その上で、それは今すべきことかと考える。少しずつ改善されてゆくのは練習場も同じである。
同じシチュエーションは二度と来ない。コースでなら確かにそうである。だが練習場はどうか。同じように見える。しかし、それは微視性の問題に過ぎない。それを小さく取れば取る程、練習場でも同じシチュエーションなど二度と起きないのである。あると言うためには違いを無視できるほど微視性を大きくするしかない。
いずれにせよ、我々は常に現在という過去を生きている。意識は先に進んだり、ずっと後ろに戻ったりしながら、あちこちを覗いている。だから、今を生きるとは、未来からみた過去の再現であったり、過去から見た未来の成就だったりする。今だけで今が出来ているのではない。過去のない今などありえない。未来のない今など無意味だ。
もちろん、未来と過去と現在を繋ぐのは単なる脳の働きに過ぎない事は分かっている。脳はそうやって記憶の中から自己の一体性を把握する。その正当性は時間の中に連続性があるという事である。経験は蓄積される。その蓄積された順序が時間の正体である。
もちろん、物理学のいう時間とは量子の振動だったりエネルギーの揺らぎだったり光子の移動距離だったりする。孰れにしろそれはゴルフとはあまり関係ない。
過去から繋がっている未来を覗いてみる。そして、今を未来からの過去として生きてみる。
そういうスイングもあるという話。
ゴルフもまた同じ。スイングをする前に、未来を思い描く。そこには様々な可能性の未来がある。全てが上手くゆく未来。べたっとピンに寄せている自分。距離が足りずにバンカーに入ってしまう自分。大きく曲がり林の中に吸い込まれゆく自分。
様々な成功も失敗も経験した上で、こうはなりたくない、だけれどもトライしてみなければ結果は分からない。それを知った上で、自分はこうチョイスする。そのたった一度のスイングは未来の後悔から振り向いた過去として行われているのである。
後悔したくなければ、それは結果にではなく、今の自分に出来る事にフォーカスするしかなく、それは我を無くしてスイングするという事でもある。
腕の角度も、腰の持ち方も、それぞれはスイングの結果とは何も関係しない。ただ、このスイングを良きものにしたいという考えだけで決定する。最高の結果を求めるし、それは過程によって決定すると知ってはいても、その選択がどのような結果をもたらすかは打ってみなければ分からない。もちろんあらゆる限りの知識を動員して、方向を決め、距離を決め、クラブとスイング径を決める。
だが、それは結果ではない。私たちに残されているのは、考えられる限り理想的なスイングをする事だけである。
クラブがどのように向きを変えるか、それがどの場所で起きれば、パワーロスの少ない最もスムーズなスイングになるか。大切な事は、右足よりもずっと右の場所でそれは行われなければならないという事だ。パターでさえ、右足よりももっと右側でダウンに入っている。
という心構えをしてもコースでは失敗の連続である。その度に、どう微調整すればいいかを考える。その上で、それは今すべきことかと考える。少しずつ改善されてゆくのは練習場も同じである。
同じシチュエーションは二度と来ない。コースでなら確かにそうである。だが練習場はどうか。同じように見える。しかし、それは微視性の問題に過ぎない。それを小さく取れば取る程、練習場でも同じシチュエーションなど二度と起きないのである。あると言うためには違いを無視できるほど微視性を大きくするしかない。
いずれにせよ、我々は常に現在という過去を生きている。意識は先に進んだり、ずっと後ろに戻ったりしながら、あちこちを覗いている。だから、今を生きるとは、未来からみた過去の再現であったり、過去から見た未来の成就だったりする。今だけで今が出来ているのではない。過去のない今などありえない。未来のない今など無意味だ。
もちろん、未来と過去と現在を繋ぐのは単なる脳の働きに過ぎない事は分かっている。脳はそうやって記憶の中から自己の一体性を把握する。その正当性は時間の中に連続性があるという事である。経験は蓄積される。その蓄積された順序が時間の正体である。
もちろん、物理学のいう時間とは量子の振動だったりエネルギーの揺らぎだったり光子の移動距離だったりする。孰れにしろそれはゴルフとはあまり関係ない。
過去から繋がっている未来を覗いてみる。そして、今を未来からの過去として生きてみる。
そういうスイングもあるという話。
2016年7月23日土曜日
GOLF 2016/07/23 - 無心
無心というのは心を空っぽにすることではない、と思った。
練習場で出来ていた事が、6割とはいえ出来たと思う。
しかしスイングがスコアには結びついたとは言い難い。それほど大きなミスをした訳でもないのにスコアが伸びないように見える。これはゴルフの問題であって、スイングの問題ではあるまい。
スコアを10縮めたければハーフで5でよい、5回ほどミスをしなければよい。それは5回のチャンスをものにすれば良いとも言える。しかしこれを失う事は容易い。当人はミスと思っていないが、そのスコアはミスだらけで生まれたものだ。
思っていないものに気付くためには、心構えも必要になるだろう。
パッとが気持ちだけで入れるならば、これほど馬鹿らしいものはない。気分がどうであれ、情熱がどうであれ、気持ちがどうであれ、感情がどうであれ、それは物理学とは関係ないものである。もし関係したなら、それは超能力である。超能力があるならゴルフをやっている場合ではない。
では、どこに注意しなければならないか。これは本当に分からない。だが、練習場の面白さと、コースの面白さは必ずしも一致しないという事だけは分かっている。
コースでどうすれば良いのか、と自問してみる。どう振る舞う事が良いのか。それがスコアとどう結びつくのか。スコアが少ないことが絶対の正義ではない。それは分かっている。だが悪いスコアにも満足できないものがある。
どう考えて、どうゴルフをしたのか。その結果がスコアである。おそらく気付いていない様々なミスから、どれほどのしっぺ返しを受けたか。それに気付いていない。
巧みならばスコアは上がるのだろうか。だが、ゴルフの巧さとはどういうものかがまだ分からない。
ゴルフ場で見せる緊張感、集中力が重要であることは間違いない。それが疎かになっているのだろうか。もちろん、その可能性は高い。
だが、そういう考えで取り組んだとしてもスコアに直結するとは思えない。
何か、見えていないものがある。例えば、ゴルフが上手い人は風の妖精が見えているのではないか。僕はその姿を見た事がない。
ゴルフの妖精など見えなくとも80台くらいは十分に可能だろうし、そうでなくては困る。だが、それだけではゴルフには足りない。
少しはコースというものを想定して考えてみようと思った。
練習場で出来ていた事が、6割とはいえ出来たと思う。
しかしスイングがスコアには結びついたとは言い難い。それほど大きなミスをした訳でもないのにスコアが伸びないように見える。これはゴルフの問題であって、スイングの問題ではあるまい。
スコアを10縮めたければハーフで5でよい、5回ほどミスをしなければよい。それは5回のチャンスをものにすれば良いとも言える。しかしこれを失う事は容易い。当人はミスと思っていないが、そのスコアはミスだらけで生まれたものだ。
思っていないものに気付くためには、心構えも必要になるだろう。
パッとが気持ちだけで入れるならば、これほど馬鹿らしいものはない。気分がどうであれ、情熱がどうであれ、気持ちがどうであれ、感情がどうであれ、それは物理学とは関係ないものである。もし関係したなら、それは超能力である。超能力があるならゴルフをやっている場合ではない。
では、どこに注意しなければならないか。これは本当に分からない。だが、練習場の面白さと、コースの面白さは必ずしも一致しないという事だけは分かっている。
コースでどうすれば良いのか、と自問してみる。どう振る舞う事が良いのか。それがスコアとどう結びつくのか。スコアが少ないことが絶対の正義ではない。それは分かっている。だが悪いスコアにも満足できないものがある。
どう考えて、どうゴルフをしたのか。その結果がスコアである。おそらく気付いていない様々なミスから、どれほどのしっぺ返しを受けたか。それに気付いていない。
巧みならばスコアは上がるのだろうか。だが、ゴルフの巧さとはどういうものかがまだ分からない。
ゴルフ場で見せる緊張感、集中力が重要であることは間違いない。それが疎かになっているのだろうか。もちろん、その可能性は高い。
だが、そういう考えで取り組んだとしてもスコアに直結するとは思えない。
何か、見えていないものがある。例えば、ゴルフが上手い人は風の妖精が見えているのではないか。僕はその姿を見た事がない。
ゴルフの妖精など見えなくとも80台くらいは十分に可能だろうし、そうでなくては困る。だが、それだけではゴルフには足りない。
少しはコースというものを想定して考えてみようと思った。
2016年6月11日土曜日
GOLF 2016/06/11 - ホイヘンスと重力
思うにスポーツとは重力の使い方を体で覚える事だ。
ゴルフにおける重力と言えば、トップの位置でクラブヘッドが受けるものが最大のもので、その位置エネルギーが利用される。もちろん、体も重力は受けているし筋肉の動きは無意識下に重力を利用したものである。ボールの運動も同様である。ボールがどれくらい飛ぶかは、重力が分かっていなければ求められるものではない。それが自然と分かっている人はフライを捕るのも上手い。
重力を利用するのはパターを打つときもそうであり、重力に逆らわない様に打つ方がいいに決まっている。
重力に逆らう、自由落下に逆らう。これは、新しい力の合成が加わるのと同じである。その余分な合力の分だけ運動は複雑になるという事である。複雑であれば軌道は不安定になりやすい。
パターはなるべく自由落下であることが望ましい。だから、その動きは振り子的になる。
振り子の動きはガリレオによって観察された。
ガリレオ(1564 - 1642)は、教会の振り子を観察(見ているだけでなく時間や距離を計測する方の観察)して、振り子の振幅の周期(元の場所に戻る時間)は、振幅の大きさ(揺れる幅の距離)に関係なく同じであることを発見した。
これを振り子の等時性(周期=時間が同じ)と呼ぶ。この振り子の性質は、等時性を利用すれば振幅を気にすることなく時間をカウントできるという事であった。これは単に揺らせばいいという話であるから使いやすい性質である。
振り子はほっておけば自然と止まるのでゼンマイなどの機構により揺らし続ければかなり正確な時間を刻む事ができる。実際に振り子時計は長く生活の中で使われてきたのである。
振子時計 - 金沢工業大学
クリスチャン・ホイヘンス | 時の有名人 | THE SEIKO MUSEUM セイコーミュージアム
ホイヘンス(1629 - 1695)は、振幅が大きい場合、この法則が成立しない事を発見した。また、この等時性は、サイクロイド曲線で振り子が運動する場合は常に成立することを証明した。
ホイヘンスが振り子に利用したのはサイクロイド曲線であったが、それを実現するのに、ラッパのような管を使う事で振り子の軌道を調整した。その詳細は次のサイトを参照されたい。
ホイヘンスの振り子(サイクロイド振り子)...♪ - アットランダム - Yahoo!ブログ
振り子の両側をラッパのような管で覆うと、振り子はラッパのガイドに従って軌道が変化する。このラッパの形状をサイクロイドにしておけば、振り子もサイクロイド曲線の軌道を描く。なんという天才。
また、ホイヘンスは、ふたつの置時計が同期する現象(リズム現象)を発見した。これは振り子のかすかな振動が壁や柱を通して伝わる事で起きる現象である。それによってふたつの時計がいつの間にか同調してしまう現象である。これはふたつのメトロノームを使えば簡単に再現できる現象である。
わずかな振動が振り子に影響を与える。これは当時においてはとても致命的な話であった。
GPSのない大航海時代には、緯度と経度を割り出す事が船の位置を知るのに重要であった。緯度は日没時の太陽の位置や一日の長さから割り出すことができたが、経度はそれを求める事が出来なかった。
経度を求めるには正確な時間が必要であった。毎日の時刻を知ることができれば、例えば毎正午時の太陽の位置を求めれば経度を知ることができる。昨日と今日の太陽位置の差は、経度の差と比例する。必要なら季節の違い(カレンダー)も考慮すればよい。
同期現象を起こす時計では航海には使えない。船が揺れてしまえばその影響を受けて時間が狂ってしまう時計では航海で正確な時を刻む事ができないからだ。
この問題の解決にはジョン・ハリソン(1693 - 1776)によるクロノメーターの発明まで待たなければならなかった。
さて、振り子の話はゴルフとは何の関係もない話である。
著名なスポーツ選手たちは物理学のフの字は知らなくても正しく重力を使いこなす。物理学の計算式は知らなくても物理学の要請から外れることはない。彼らは物理学に則って最大限のパフォーマンスを発揮する。
それでも多くのスポーツ選手は物理学を知らないので、若い時に出来ていたことが、筋肉の衰えや、反応の鈍感に伴い、違ってくると、その違和感に対応できない場合がある。それを感覚(主に若いときに培われた)だけで訂正しようとしても状況から脱出しきれるものではない。
パターでは特に顕著であるが、クラブの重さを感じて、重力に沿って落ちるように打つべきだ。その落ち方がボールに対して進行方向を向くように調節することが筋肉の役割となる。
重力に従って落ちる場合、当然だが、体が揺れたり、回転する動きを与えようとしても方向性の安定は得られない。重要なことは力を加えることではなく、余計な力を排除することだ。
体の左サイドは固定し右サイドは動かす。これがトップでの動きであり、パットは特に右サイドだけで、最低限の動きに留めるべきだろう。
勿論、これはパターだけでなく、アイアンでも同様である。如何に重力を使ってクラブを落下させるか、その軌道から逆らわないようにするか。当然だが、重力で落ちるといっても、まっすぐ下(鉛直垂直線上)に落ちるものではない。トップの時に筋肉が与える力でそれは曲線軌道を採用するはずである。
人間の体ほどではないにしても、ゴルフクラブも十分に複雑な物理的特性を持っている。それを数式で表現する能力はないので、アニメーションでそれを表現できればいいのだが、それも難しい状況だ。よって、各人は体感してみて重力を使うということを感じるしかない。
重力に逆らわない:これは重力のみで落下させるという意味ではない。クラブは筋肉を使って加速する。その時に得られた軌道が重力(自然のあり方、物理学)で得られた軌道に逆らわないようにする。誰も物理学からの要諦に逆らうことはできないからである。
ゴルフをもっとも変える要因は重力定数 G の値だろう。だから G が異なる異星ではゴルフは随分と変わったものになるのではないだろうか、と思ったりもする。
ゴルフにおける重力と言えば、トップの位置でクラブヘッドが受けるものが最大のもので、その位置エネルギーが利用される。もちろん、体も重力は受けているし筋肉の動きは無意識下に重力を利用したものである。ボールの運動も同様である。ボールがどれくらい飛ぶかは、重力が分かっていなければ求められるものではない。それが自然と分かっている人はフライを捕るのも上手い。
重力を利用するのはパターを打つときもそうであり、重力に逆らわない様に打つ方がいいに決まっている。
重力に逆らう、自由落下に逆らう。これは、新しい力の合成が加わるのと同じである。その余分な合力の分だけ運動は複雑になるという事である。複雑であれば軌道は不安定になりやすい。
パターはなるべく自由落下であることが望ましい。だから、その動きは振り子的になる。
振り子の動きはガリレオによって観察された。
T(周期)= 2π√(L(長さ)/g(重力定数))
ガリレオ(1564 - 1642)は、教会の振り子を観察(見ているだけでなく時間や距離を計測する方の観察)して、振り子の振幅の周期(元の場所に戻る時間)は、振幅の大きさ(揺れる幅の距離)に関係なく同じであることを発見した。
これを振り子の等時性(周期=時間が同じ)と呼ぶ。この振り子の性質は、等時性を利用すれば振幅を気にすることなく時間をカウントできるという事であった。これは単に揺らせばいいという話であるから使いやすい性質である。
振り子はほっておけば自然と止まるのでゼンマイなどの機構により揺らし続ければかなり正確な時間を刻む事ができる。実際に振り子時計は長く生活の中で使われてきたのである。
振子時計 - 金沢工業大学
クリスチャン・ホイヘンス | 時の有名人 | THE SEIKO MUSEUM セイコーミュージアム
ホイヘンス(1629 - 1695)は、振幅が大きい場合、この法則が成立しない事を発見した。また、この等時性は、サイクロイド曲線で振り子が運動する場合は常に成立することを証明した。
サイクロイド曲線とは
x=r(θ−sinθ),
y=r(1−cosθ)
θは任意の角度(0~2π)、rは長さ。
rを半径とする円をx方向に転がした時のある一転の軌跡。
最急降下線
AからBに転がり落ちる曲線でもっとも早くBに辿り着ける軌道。
ホイヘンスが振り子に利用したのはサイクロイド曲線であったが、それを実現するのに、ラッパのような管を使う事で振り子の軌道を調整した。その詳細は次のサイトを参照されたい。
ホイヘンスの振り子(サイクロイド振り子)...♪ - アットランダム - Yahoo!ブログ
振り子の両側をラッパのような管で覆うと、振り子はラッパのガイドに従って軌道が変化する。このラッパの形状をサイクロイドにしておけば、振り子もサイクロイド曲線の軌道を描く。なんという天才。
また、ホイヘンスは、ふたつの置時計が同期する現象(リズム現象)を発見した。これは振り子のかすかな振動が壁や柱を通して伝わる事で起きる現象である。それによってふたつの時計がいつの間にか同調してしまう現象である。これはふたつのメトロノームを使えば簡単に再現できる現象である。
わずかな振動が振り子に影響を与える。これは当時においてはとても致命的な話であった。
GPSのない大航海時代には、緯度と経度を割り出す事が船の位置を知るのに重要であった。緯度は日没時の太陽の位置や一日の長さから割り出すことができたが、経度はそれを求める事が出来なかった。
経度を求めるには正確な時間が必要であった。毎日の時刻を知ることができれば、例えば毎正午時の太陽の位置を求めれば経度を知ることができる。昨日と今日の太陽位置の差は、経度の差と比例する。必要なら季節の違い(カレンダー)も考慮すればよい。
同期現象を起こす時計では航海には使えない。船が揺れてしまえばその影響を受けて時間が狂ってしまう時計では航海で正確な時を刻む事ができないからだ。
SYNC: なぜ自然はシンクロしたがるのか - スティーヴン・ストロガッツ
この問題の解決にはジョン・ハリソン(1693 - 1776)によるクロノメーターの発明まで待たなければならなかった。
さて、振り子の話はゴルフとは何の関係もない話である。
著名なスポーツ選手たちは物理学のフの字は知らなくても正しく重力を使いこなす。物理学の計算式は知らなくても物理学の要請から外れることはない。彼らは物理学に則って最大限のパフォーマンスを発揮する。
それでも多くのスポーツ選手は物理学を知らないので、若い時に出来ていたことが、筋肉の衰えや、反応の鈍感に伴い、違ってくると、その違和感に対応できない場合がある。それを感覚(主に若いときに培われた)だけで訂正しようとしても状況から脱出しきれるものではない。
パターでは特に顕著であるが、クラブの重さを感じて、重力に沿って落ちるように打つべきだ。その落ち方がボールに対して進行方向を向くように調節することが筋肉の役割となる。
重力に従って落ちる場合、当然だが、体が揺れたり、回転する動きを与えようとしても方向性の安定は得られない。重要なことは力を加えることではなく、余計な力を排除することだ。
体の左サイドは固定し右サイドは動かす。これがトップでの動きであり、パットは特に右サイドだけで、最低限の動きに留めるべきだろう。
勿論、これはパターだけでなく、アイアンでも同様である。如何に重力を使ってクラブを落下させるか、その軌道から逆らわないようにするか。当然だが、重力で落ちるといっても、まっすぐ下(鉛直垂直線上)に落ちるものではない。トップの時に筋肉が与える力でそれは曲線軌道を採用するはずである。
人間の体ほどではないにしても、ゴルフクラブも十分に複雑な物理的特性を持っている。それを数式で表現する能力はないので、アニメーションでそれを表現できればいいのだが、それも難しい状況だ。よって、各人は体感してみて重力を使うということを感じるしかない。
重力に逆らわない:これは重力のみで落下させるという意味ではない。クラブは筋肉を使って加速する。その時に得られた軌道が重力(自然のあり方、物理学)で得られた軌道に逆らわないようにする。誰も物理学からの要諦に逆らうことはできないからである。
ゴルフをもっとも変える要因は重力定数 G の値だろう。だから G が異なる異星ではゴルフは随分と変わったものになるのではないだろうか、と思ったりもする。
2016年3月12日土曜日
GOLF 2016.03.12号 - 意識と無意識の境界で
スイングは二通りしかないわけじゃない。
意識して打とうとすれば、意識が足枷となって自然さが損なわれる。しかし、無意識で打てば、大切なポイントを忘れて不合理に陥る(かも知れない)。
そのどちらかでしか極められないと思っていたが、そうではない。練習場と違って、斜度も地面の硬さも異なるコースでは、様々な状況が起きる。そういう状況の変化は意識した方がよい。
スイングが悪くなった時に、どう元の感覚を取り戻すかは、実はやってはいけないマネージメントであって、練習不足を本番で嘆いても既に手遅れである。それは意味がないだけではなく、より悪い状況をもたらす可能性が高い。それは次のふたつの理由で説明できる。
スイングが悪い時に、精神も頭脳も劣悪と来た日には、どんな結果が待ちかまえていると言うのか。
健全な精神は健全な肉体に宿ると言うが、こんなもの嘘っぱちである。そもそも論で言えば、まず健全の定義から始めなければならない。つまり、精神の健全さと肉体の健全さは同一と言えるのかと言う問いである。
車に例える。ドライバーの能力は車のポテンシャルを超えることはできない。強いAI囲碁は強力なコンピュータを必須とする。だが、車のポテンシャルが高いことがドライバーの能力を決定するのではなく、強いコンピュータならば全てが、強いAIとなる訳ではない。
同様に、健全でない肉体にも健全な精神はありえるし(健全な精神の定義も必要だが)、健全な肉体に劣悪な精神もありうる。これは組み合わせの問題である。
これは、ユウェナリスの言葉とされているもので、別に宿ると言ったのではないらしい。
それもラテン語で。彼の方言までは知らない。
この言葉は歴史の中で便利な言葉だった。それが意味する所は、人間は精神と肉体の二元論で考えるのが便利だである。ふたつに分けて考える、は他にもたくさんある。
脳は、肉体と精神をどう認識しているか、という問いは重要である。脳の機能のひとつに精神があると仮定し、ここでは魂は考慮しない。魂がゴルフに与える影響は、スイングとは関係ないからである。脳が自分をどう認識するか。それは精神としてである。その一方で他人を見れば、脳はそれを肉体として捉える。
よって脳は他人の中にも自分と同じ精神があると推定する。その前提が正しいものとして行動を決定する。そして自分の体をコントロールするのは精神であると結論づけているはずである。
もちろん、意識は自分が食べたものをどういう化学変化で処理して糞便にするかは知らない。だが脳がその指令を出している。つまりその方法を知っているのである。
こうして脳の認識の中には肉体と精神が別々のものとして出現する。そして精神は寝たり気を失ったりすることから消えるものである。寝ているときは精神は消滅する。しかし夢から覚めれば復活する。と言うことは精神が休んだ時も、人の中にあって、人を動かす仕組みがあるはずである。それは死んも消えてしまうものである。これを合理的に説明するならば魂という存在が必要になる。
ユウェナリスの言葉を脳の立場で訳せば、健康で健やかに過ごせたら、それでもう十分じゃないか、となるのではないか。
さて、穏やかの反対にあるものが熱狂である。熱狂によって精神は高揚する。しかし肉体はそれに関しては無頓着である。
意識と肉体は決して互いのすべてを知っているわけではない。特に意識はそれについて知らない。しかし、それは全て脳の中で起きている。
つまり、自分にとって、ゴルフスイングの全てを意識的に行うことは不可能だし、すべてを無心に意識せずに行うのも違うと思う。この精神と肉体はどちらも欠かせない。だが、これは意識の見方であって、脳を客観的に見れば、脳とは臓器である。かつ精神活動の場である。
静的な構造を体と呼び、その活動を精神と呼ぶならば、それは腕にも、骨と筋肉と関節という構造があり、それが筋収縮によって様々な運動をするのと似ている。
構造と運動。このふたつを意識と無意識と呼んでもいいだろう。
もし、意識だけなら、無意識が足りない。無意識だけなら、意識が足りない。構造だけでは運動が足りない、運動するには構造が必要だ。ふたつは密接に関係しあいながらも、意識は意識に、無意識は無意識に任せる、という状態にあるべきか。
スイングは、少なくともその両方(他にもあるかも知れない)を含んでいる。
スイングには物理学的要請があり、それを構造と呼ぶ。その上で運動が起きる。意識は構造を支配し、無意識は運動を支配する。
兎に角、いま気を付けていることは、スイングは前傾姿勢を保つべきであるという点だ。ボールを打ち終わっても前傾姿勢は崩してはならない。これが肝要である。これが信仰である。
だが、その信仰はコースの上では数多くのトップを生む結果となった。僕はこれをよい兆しだと密かに思っている。明らかに何かが変わった証拠だからである。それ以外の根拠はない。
意識して打とうとすれば、意識が足枷となって自然さが損なわれる。しかし、無意識で打てば、大切なポイントを忘れて不合理に陥る(かも知れない)。
そのどちらかでしか極められないと思っていたが、そうではない。練習場と違って、斜度も地面の硬さも異なるコースでは、様々な状況が起きる。そういう状況の変化は意識した方がよい。
スイングが悪くなった時に、どう元の感覚を取り戻すかは、実はやってはいけないマネージメントであって、練習不足を本番で嘆いても既に手遅れである。それは意味がないだけではなく、より悪い状況をもたらす可能性が高い。それは次のふたつの理由で説明できる。
- 練習通りには行かないのを受け入れらない精神的脆弱さの露出
- スイングをその場で訂正できると考える無知、無能、筋の悪さ
スイングが悪い時に、精神も頭脳も劣悪と来た日には、どんな結果が待ちかまえていると言うのか。
健全な精神は健全な肉体に宿ると言うが、こんなもの嘘っぱちである。そもそも論で言えば、まず健全の定義から始めなければならない。つまり、精神の健全さと肉体の健全さは同一と言えるのかと言う問いである。
車に例える。ドライバーの能力は車のポテンシャルを超えることはできない。強いAI囲碁は強力なコンピュータを必須とする。だが、車のポテンシャルが高いことがドライバーの能力を決定するのではなく、強いコンピュータならば全てが、強いAIとなる訳ではない。
同様に、健全でない肉体にも健全な精神はありえるし(健全な精神の定義も必要だが)、健全な肉体に劣悪な精神もありうる。これは組み合わせの問題である。
| 精神 | 肉体 |
|---|---|
| 健全 | 健全 |
| 健全 | 劣悪 |
| 劣悪 | 健全 |
| 劣悪 | 劣悪 |
これは、ユウェナリスの言葉とされているもので、別に宿ると言ったのではないらしい。
It is to be prayed that the mind be sound in a sound body
健全な肉体の中で精神が健全となるよう望む
それもラテン語で。彼の方言までは知らない。
この言葉は歴史の中で便利な言葉だった。それが意味する所は、人間は精神と肉体の二元論で考えるのが便利だである。ふたつに分けて考える、は他にもたくさんある。
脳は、肉体と精神をどう認識しているか、という問いは重要である。脳の機能のひとつに精神があると仮定し、ここでは魂は考慮しない。魂がゴルフに与える影響は、スイングとは関係ないからである。脳が自分をどう認識するか。それは精神としてである。その一方で他人を見れば、脳はそれを肉体として捉える。
よって脳は他人の中にも自分と同じ精神があると推定する。その前提が正しいものとして行動を決定する。そして自分の体をコントロールするのは精神であると結論づけているはずである。
もちろん、意識は自分が食べたものをどういう化学変化で処理して糞便にするかは知らない。だが脳がその指令を出している。つまりその方法を知っているのである。
こうして脳の認識の中には肉体と精神が別々のものとして出現する。そして精神は寝たり気を失ったりすることから消えるものである。寝ているときは精神は消滅する。しかし夢から覚めれば復活する。と言うことは精神が休んだ時も、人の中にあって、人を動かす仕組みがあるはずである。それは死んも消えてしまうものである。これを合理的に説明するならば魂という存在が必要になる。
ユウェナリスの言葉を脳の立場で訳せば、健康で健やかに過ごせたら、それでもう十分じゃないか、となるのではないか。
さて、穏やかの反対にあるものが熱狂である。熱狂によって精神は高揚する。しかし肉体はそれに関しては無頓着である。
意識と肉体は決して互いのすべてを知っているわけではない。特に意識はそれについて知らない。しかし、それは全て脳の中で起きている。
つまり、自分にとって、ゴルフスイングの全てを意識的に行うことは不可能だし、すべてを無心に意識せずに行うのも違うと思う。この精神と肉体はどちらも欠かせない。だが、これは意識の見方であって、脳を客観的に見れば、脳とは臓器である。かつ精神活動の場である。
静的な構造を体と呼び、その活動を精神と呼ぶならば、それは腕にも、骨と筋肉と関節という構造があり、それが筋収縮によって様々な運動をするのと似ている。
構造と運動。このふたつを意識と無意識と呼んでもいいだろう。
- 構造
- 運動
もし、意識だけなら、無意識が足りない。無意識だけなら、意識が足りない。構造だけでは運動が足りない、運動するには構造が必要だ。ふたつは密接に関係しあいながらも、意識は意識に、無意識は無意識に任せる、という状態にあるべきか。
スイングは、少なくともその両方(他にもあるかも知れない)を含んでいる。
スイングには物理学的要請があり、それを構造と呼ぶ。その上で運動が起きる。意識は構造を支配し、無意識は運動を支配する。
兎に角、いま気を付けていることは、スイングは前傾姿勢を保つべきであるという点だ。ボールを打ち終わっても前傾姿勢は崩してはならない。これが肝要である。これが信仰である。
だが、その信仰はコースの上では数多くのトップを生む結果となった。僕はこれをよい兆しだと密かに思っている。明らかに何かが変わった証拠だからである。それ以外の根拠はない。
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