ゴルフにもメカニズムがある。これを探求することは、例えば、障害者がゴルフをやることのサポートにもなるだろう。
優れた義手や義足の出現で 10 年以内にその機能性は生身の手足を凌駕するだろう。そうなれば障害者もゴルフなどのスポーツを広く楽しめるようになるだろう。
こういう機器の発展によって問題になるのはプロの世界である。19世紀の蒸気の時代、馬車業者がスチームロコモーティブに挑んだ時から、人間は機械に負けっぱなしである。
人間の肉体が機械に凌駕されたのが 20 世紀であったろう。それは戦争の悲惨さとも比例する。そして 21 世紀は知的活動が凌駕される。オセロ、チェスは既に、そして将棋はもはや、囲碁も時間の問題である。
もちろん、こういう新しい活動は人間にフィードバックされ、オセロは置石の工夫を生み出したし、チェスは知らないが、将棋がコンピュータから新手を編み出しているのも間違いない。
20代の名人などありえない。坂田栄男がそう言ったのが 1965 年。現在の囲碁界の帝王は井山祐太で 24 才。これが新しい時代の流れなんだと思ったらとんでもない。算砂が名人になったのが 20 才である。初心忘るべからずである。
なぜ人は年を取ると弱くなるのか。それが脳の衰えと関係するのは間違いないだろう。記憶、読み、などの衰えは、経験、勘、大局観などで補う。長い時間をかけて研いたもの、蓄積したものでどこまで対抗しうるか。
では若い時の利点、記憶力、活動スピード、持続力、経験はないが思い込みもない。これが年を重ねた事の利点とどう対するものか。
かつて最強であった趙治勲が今もリーグ戦で戦っている事は偉大だ。しかしあれほどの強者が挑戦者にもなれないのは何故だろう。力の衰えは経験を重ねる事だけでは挽回できぬものか。
コンピュータと人の戦いでは疲労がひとつの争点になる。コンピュータは疲労しない。これではフェアではない。人は疲れてミスを犯す。コンピュータのミスは仕様(バグ)である。修正すれば次はミスはしない。このミスの発生率はとてもアンフェアと感じる。
さて、ゴルフである。
スイングの基本はボールを打たない事ではないだろうか。もちろんボールは打つのである。だがボールを打とうと意識しない。ボールはスイングの軌道上に配置されている。だからスイングでボールを意識する必要はない、軌道を通ればいいのである。
別の言葉で言えば「ボールを見てはならない」である。そう思い、僕は目を瞑ってスイングしてみた。この考えが正しいとすれば、目の見えない人でもゴルフをする上でのハンデにはならないのである。これは障害者にとっても朗報ではないか。すると案の定、空振りである。
なぜ目を開けておく必要があるのか。目を瞑ると人は平衡感覚を失うからである。平衡感覚を失わないように目を開けておく。するとボールが目に入る。でもそれは対して大切ではない。意識はスイングである。トップからフィニッシュまで振り切れば十分である。
トップで手首を曲げる。スイングの前半で重要なのは右手である。右手の軌道によってスライスにもトップにもなる。ボールを意識することなく、トップからフィニッシュまでのクラブの軌跡を意識する。
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