自分の思い通り行かない時に、誰かを罵倒するのは誰もがやる事だ。それでストレス解消にもなる。そうやって何かのせいにして、自分の正義を通し、思い通りにしなければ精神の安定が保てない。
誰だって誰かに頼りにされれば嬉しいものだ。だから、相手を罵倒するのは孤立の裏返しと言える。相手よりも一時的に優位に立って、自分の地位を示し、能力を示す事で、相手に自分が頼られる存在であると示唆する。これは、孤立から抜け出したい、という気持ちの表出でもある。
だが、そのままでは自分の感情の発露であって対立を埋めるのには遠い。ただ神の御加護を祈っているだけでは解決しないだろう。祈りはインスピレーション(啓示)を得るためにするものだ。
そうやって何事も思い通りにいかない。ゴルフなんか、なんでここで、と言う所でダフったりする。僕はクラブのせいにしてその場の鬱憤を解放しているが、本当はそこで終わってはダメだろう。自分と向き合うというけれど、本当は失敗を受け入れると言う事だろう、失敗を繰り返さないために、鬱憤を晴らすだけでは駄目だろう。
だけど、先の見えない霧のような状態にあって、打てども打てども、ダフったりトップしたりしてスコアが悪くなってゆく。そこでどうすればいいのか、それを受け入れたらスコアが良くなるかと言えばそんなはずはない。
何をすればいいのか、どうすればいいのか、自分では分からない。一体、上手く打てた時と、悪いショットでは何が違うのか、自分のスイングが悪いのか、では何が上手くいく事と悪い時を分けるのか。The Openで優勝寸前でパットを外したプレイヤーがいたが、彼が下手だったり練習不足だったりする訳がない。
不運だか、たまたまだったのか、昔の人はそれを神の御加護とか、天の意志と呼んだりした。それよりはゴルフの神様に愛されなかったと呼ぶ方がまだ少しは納得がいく。いや、そんなわけあるか。彼は何回もそのパットを夢に見て目を覚まし、そして分からないままの自分でいる。
慰めの言葉は当人には何の役にも立たない。だがゴルフは人生と同じだろう。
僕は、それはクラブが悪い、と兎にも角にも立腹している。
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