敗北
負けるとは、勝つことが出来たのに、それを失った事を言う。負けは許容される。
次にもう一度の勝負に挑むだけの優しさが世界にはある。
戦国の武将ならば命を失う戦いであったかも知れぬ。
勝ち目のない戦いがある。
しかし、それは負けであろうか。
アントニオ猪木の名言がある。
「戦う前に負けること考える馬鹿がどこにいるかよ」と。
負けた時にどうして負けたのかを考える。
その時間が与えられているのは幸いだ。
多く負ける戦いは、自滅によるものと相場は決まっている。
もし両者が相武つかり自滅することなく戦ったなら勝負は何によって結果を得るであろうか。
ちょっとした風向きやボールの跳ね方が明暗を別ける。
それを運と人は呼ぶのだろうか。
そういう戦いこそがお互いを称え合えるものではないか。
「ひとりの天才だけでは名局は生まれんのじゃ、等しく才たけた者がふたり要るんじゃよ。」
桑原本因坊が言う通り、勝負であれば名局にも敗者がいる。
大局観
K, H, M と 4 人でゴルフに行った。始めのうちに 5 打差で優勢になった。囲碁で言えば 3 人に対して 5 目以上の優勢である。大局観という言葉がある。囲碁棋士にも二通りの戦い方がある。
相手との差を常に見ながら半目勝ちを目指す者。これは相手との相対的な関係の中で戦いを決めるやり方である。依田紀基がこの戦い方である。彼は前半に築いた 1 目の優勢を最後まで保つように打つ。目算をしないで流れの中で状況判断をしてゆく。
もうひとつが常に最後まで最強手を打つ者だ。優勢も劣性も関係なく緩む事なく最後まで最強の一手を追及する。井山裕太がそうであろうか。常に最強であるべき手とは今の状況ではなく、棋譜に対する追求である。
ウェイン・レイニーというレーサーが居た。彼は相手を追い駆けている時よりも先頭に立ってからの方が最高ラップを叩き出す選手であった。自分の前を走る自分自身の幻想を追い駆けていたのではないか、と解説者は語っていた。
どちらのやり方が優れるかという問題ではない。どちらが自分に合っているかだけの問題なのだ。これは性格の問題なのだ。実在する相手を意識した方が良い人と、幻想を相手にした方が良い人がいるのだ。
僕は勝利を意識した。それまで相手のスコアなど気にせず打っていたのに、5 ホール目で同伴者の顔を見たのである。そこで勝利している自分の姿を見てしまった。誰もいない野原からみんながいる場所に飛んでしまったのだ。絶対主義のゴルフから相対主義のゴルフに切り替えてしまったのだ。その瞬間、僕のギアはガリガリと音を立てて噛みあわなくなり、エンジンは減速を始めたのである。
勝利の女神は手の間からこぼれてゆくのだ。勝負と勝利は全く違うものだ。勝負に勝つから勝利があるのではない。手を離したから敗北したのだ。人に勝つ事は、僕の求めるものではない。人に勝とうとすることが僕の勝利ではない。人に勝とうとすると僕の集中力は雲散霧消するから。
トラブルショット
林の中から打つショットはトラブルショットに違いない。ではフェアウェイから打つショットはトラブルショットではないのか。フェアウエイでは打つ方向に邪魔なものはない。ライも良い。林の中には木があり土や木の根がある。フェアウエイよりも考えるべきことは沢山ある。だが考えるべき事が沢山ない事は考えなくて良い事ではない。考えることが沢山あるのは面白さでもある。考えるべき事が多いのに考えていないようでは結果が上手く行くはずがない。
どこまでがトラブルでどこからがトラブルではないのか。フェアウェイがトラブルではないとはただの思い込みではないか。フェアウェイからでも失敗する事があるのだから。フェアウエイからのショットもトラブルショットに違いない。カップインする迄の全てのショットがトラブルショットなのだ。
フェアウェイと林の中は状況が違う。打つ方向も打てる距離も選べる選択肢の多さも違う。選択肢が少ないほど困難なショットには違いない。だがどのようなショットであれ、多かれ少なかれ困難がある。全てのショットに共通して方向、距離、強さ、があるのだ。その結果がどのようなトラブルを生み出すかは打ってみなければわからない。人生と同じだ。人生もまたトラブルばかりなのである。気付いていないだけで。
砲台グリーン
砲台グリーンは高く上げて落とすのが基本らしい。しかし、ボールが林の中に飛び込み、そこからは高く上げる事などできない。そこで斜面に当てて減速させグリーンを転がそうとした。実際に打ったのは強く打ち過ぎ減速が足りず、グリーンから転がり落ちた。このショットが忘れられない。どうすれば良かったのか。このショットで勝てる試合に負けたのだ。どうすれば良かったのか今でも分からない。第二打で林に入らなければよかったのだろうか。そんな事を言っても仕方のない事か。勝者 K は言う。目標をはっきりと意識し緊張感のある状態で打てば成功するのだ、と。気の緩みがミスショットを生むのだと。
なるほど彼は良い日本陸軍の参謀に成れるであろう。K は王様なのだから、その言や良し。気の緩みはゴルフだけでなく常に何時でも全てを悪くする。過度な緊張も同じだ。問題は気の緩みではない。気の緩みに蔓延に気付けない自分自身の状態なのだ。
反撃の狼煙
K は今回の勝利で朕は王様である自らのたまわれた。下々の者に、負けたことを宣誓せよと発布したのである。敗者どもよ、吾を追い落としてみよ、もしそれが出来るものならばと。これが革命の始まりである。彼はこの時、敗北者としての講和条約にサインしたのである。それは必ず来るのである。確かに今日は負けた。しかし彼は命を取らなかった。平清盛の二の舞にしてくれる。おごれる K は久しからず。再戦は敗者の権利である。
「二人から始めてここまで準備するのに 20 年、生きてりゃもう 1 回くらいやれるさ。」
これは押井守の最高傑作のセリフである。
(かならず思い知らせてやる!!)
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