2016年7月31日日曜日

練習場より 2016.07.31号 - 無心 I (徒然草)

徒然草 第92段
或人、弓射ることを習ふに、諸矢もろやをたばさみて的に向ふ。師の云はく「初心の人、二つの矢を持つことなかれ。後の矢を頼みて、始めの矢に等閑の心あり。毎度、ただ、得失なく、この一矢に定むべしと思へ」と云ふ。わづかに二つの矢、師の前にて一つをおろかにせんと思はんや。懈怠けたいの心、みづから知らずといへども、師これを知る。この戒め、万ことにわたるべし。

道を学する人、夕には朝あらんことを思ひ、朝には夕あらんことを思ひて、重ねてねんごろに修せんことを期す。いわんや、一刹那の中において、懈怠の心あることを知らんや。何ぞ、ただ今の一念において直ちにすることの甚だ難き。


ある人、アプローチをするのに、このボールをぴったし寄せてやるとばかりに打とうとするとき『ボールは飛ぶように飛ぶ。そこにうまいもへたもない。アマチュアはそんな自分をうまいと思っている。それがすでに慢心である。萎縮すれば近くでミスをする。慢心すれば遠くでミスをする。どちらも打つ前から安心しようとする心がある。目標を定めてからボールが飛んでゆくまで、周りに溶け込まないといけない。』我が出てくると慢心になる。我が出てくると萎縮する。我の心は知らぬ前に心を染める。知らずと知らずと謂えども、上手はこれを知る。この戒め、全てに通ず。

道を学ぶ人、夕には明日がまだあるからいいと思い、朝には夕方まで時間がたっぷりあると思う。それまで自分がしっかりやればいいと思っている。それが慢心である。既に懈怠に汚染されたことに気付いていない。ただこの一瞬の間だけでも、懈怠でないというのは、難しいものである。

どういう風に打つべきか。あまたの中では何が起きているべきか。

何ことも頭の中で何かを動かさなければ始まらないはずである。

もちろん、意識が知る頃には遅い場合がある。意識してからでは間に合わないことはたくさんある。それでも、Reaction として意識が働かなければ、出来ないこともある。

頭の中で動かすとは二つ以上の異なる状況を重ねることだと思う。そこに違いがあるならそれは動いたと言える。

この動くことを明瞭に意識することが違いに敏感になることである。勿論あらゆる情報を全て比較するのは実用的ではない。よって意識するとは、この比較する場所を限定することだと言える。

練習場では、スイングについての考察を重視するため、飛行線については余り考えない。それでも何度も繰り返し打っている間に、方向は自然と極まってゆく。

しかし、それは狙った方向に打つというよりも打つ度に微調節してゆくことで自然と決まったものである。だからいきなりどこかを狙って打つという力はついているとは言えない。

人間は常に意識することで身に着けることが出来る。それが自然とできるようになれば成功と言えるだろう。だから、漠然と打つよりも、短時間でも意識してやる方がいいという話がある。

漠然と自然に覚えるというのは自然な方法であるが、それが常に完全というわけではない。

いずれにしろ、狙った場所を打つ時には、方向と距離が必要である。

練習場では一点式の方法で行っている。それはスタンスに対してスイングだけをするという方法であって、方向性はほとんど無視している。

この方法では打感を重視している。スイングの全体の流れで、無駄な力は入っていないか、よりパワーのある打ち方はないか、と模索している。

しかし、この方法では当然だがコースへのフィードバックは多くはない。コースでは一回しか打てないからである。何度も何度も打ち直して、段々とブラッシュアップする練習場と、ただ一回だけを狙うコースとでは、求められる質も量も明らかに違う。

これを練習場で意識するためには、二点間の打撃が必要だろうと思ったのである。二点間とは、目標地点があり、そこに向かってスタンスをするという意識である。

これを意識すると、スイングには、ただ打つのではない、新しい制限が加わる。

まず目標地点に対してスタンスを取るようになる。次に、トップの位置からクラブを落とす方向に目標地点がなければならない。

力んだり、体が早く回ってはいけない。

よいスイングのためには、腕は小さく回さなければならない。

体が開いてしまわないように、お腹の動きが重要になる。

お腹がスイングの邪魔をしないようにしないといけない。

それでも、距離に対して、体は自然と反応しようとするから、大きなクラブで近くを狙ったり、小さなクラブでより遠くを狙うことを繰り返し、過剰な力が筋肉を動かさないよう意識することも大切になる。

過剰な力がスイングが狂う最も大きな原因であろう。なるべく遠くを狙う方が結果は良いようである。そのクラブで到達できる距離よりも、近くをターゲットにする方が、失敗する可能性は高くなる。

速度を抑制する、力加減を抑制する、体の動きを抑制するなど、力をセーブする動きが、全体のバランスを狂わせるからである。

車で急ブレーキを踏むと、リアが左右に振られるようなものである。

左右に揺れればクラブの飛線は不安定になるだろう。

もし、大きいクラブで近くを狙いたいならば、それなりのブレーキの踏み方があるはずである。シャフトを短く握る、小さく打つ、やっぱりクラブを小さくする。

いずれも重要なのはタイミングである。

この二点(自分の立っている場所とボールの目標)を意識した打ち方で練習をすれば、もう少しコースで打っているに近づけるかも知れない。

2016年7月23日土曜日

GOLF 2016/07/23 - 無心

無心というのは心を空っぽにすることではない、と思った。

練習場で出来ていた事が、6割とはいえ出来たと思う。

しかしスイングがスコアには結びついたとは言い難い。それほど大きなミスをした訳でもないのにスコアが伸びないように見える。これはゴルフの問題であって、スイングの問題ではあるまい。

スコアを10縮めたければハーフで5でよい、5回ほどミスをしなければよい。それは5回のチャンスをものにすれば良いとも言える。しかしこれを失う事は容易い。当人はミスと思っていないが、そのスコアはミスだらけで生まれたものだ。

思っていないものに気付くためには、心構えも必要になるだろう。

パッとが気持ちだけで入れるならば、これほど馬鹿らしいものはない。気分がどうであれ、情熱がどうであれ、気持ちがどうであれ、感情がどうであれ、それは物理学とは関係ないものである。もし関係したなら、それは超能力である。超能力があるならゴルフをやっている場合ではない。

では、どこに注意しなければならないか。これは本当に分からない。だが、練習場の面白さと、コースの面白さは必ずしも一致しないという事だけは分かっている。

コースでどうすれば良いのか、と自問してみる。どう振る舞う事が良いのか。それがスコアとどう結びつくのか。スコアが少ないことが絶対の正義ではない。それは分かっている。だが悪いスコアにも満足できないものがある。

どう考えて、どうゴルフをしたのか。その結果がスコアである。おそらく気付いていない様々なミスから、どれほどのしっぺ返しを受けたか。それに気付いていない。

巧みならばスコアは上がるのだろうか。だが、ゴルフの巧さとはどういうものかがまだ分からない。

ゴルフ場で見せる緊張感、集中力が重要であることは間違いない。それが疎かになっているのだろうか。もちろん、その可能性は高い。

だが、そういう考えで取り組んだとしてもスコアに直結するとは思えない。

何か、見えていないものがある。例えば、ゴルフが上手い人は風の妖精が見えているのではないか。僕はその姿を見た事がない。

ゴルフの妖精など見えなくとも80台くらいは十分に可能だろうし、そうでなくては困る。だが、それだけではゴルフには足りない。

少しはコースというものを想定して考えてみようと思った。

2016年7月22日金曜日

練習場より 2016.07.22号 - クラブの動き I

クラブは次の3つの点で構成されている。

  1. グリップ
  2. ネック
  3. ヘッドの重心

その独特の形状からヘッドの重心が最も関心を集めるのだが、クラブという構造を見たとき、力を与える場所は、グリップである。重力を最も受けるのはヘッドの重心である。

そして、もっとも人間がその運動を意識できるのがネックである。ヘッドの重心に意識を持つことが誤りの元であるように思う。ネックを意識すべきだと思う。何故なら、結果的にボールに力を伝えるのがヘッドだとすれば、もっとも安定して運動しているのはネックである。

クラブの重心が、シャフトの延長線上から外れている点がゴルフクラブのユニークさだと思う。この対称性のなさがゴルフクラブの独自性であり、重心の位置と運動の中心となるネックが違う軸線上にあることが、トルクを生み出す。

スイングで最も人間が意識するのはネックの振る舞いであって、グリップとネックとの間に働く力と比べれば、ヘッドの重心など、付随するおまけのようなものである。その運動の大部分はシャフトが生み出しているのであって、クラブヘッドは重りに過ぎない。

グリップとネックの運動を感得できるようになれば、恐らくスイングは変わるんだろうと思う。

2016年7月20日水曜日

練習場より 2016.07.20号 - クラブヘッドの回転

クラブというものは、3次元の動きをする。3次元は (x,y,z) の事であり、日本語なら(横、縦、高さ)で表わされる。

これらはいずれも距離である。距離は同じでも方向が違うから3次元である。方向とはもちろんベクトルの事であるから、3次元の運動は、いずれもベクトルの合成として考えることが出来る。逆に言えば、3次元は3つの方向に分解することができる。これはベクトルが足したり掛けたりできる演算だからである。

物理学では距離と時間は同値と考える。距離=速度×時間であるから、距離と時間は置き換え可能である。全ての距離を時間×速度に置き換えても良いし、時間を距離÷速度に置き換えても良い。なお速度を微分すれば加速度である。

相対的に速度は加算できる。すれ違った 300km/h の新幹線の速度差は 600km/h である。すれ違った新幹線に乗っている人には相手が 600km/h で走っているように感じられるのである。

しかし、光速新幹線ですれ違ったらそうは見えない。相手が c (2c ではない)で飛んでいるように見える。実際にはすれ違った瞬間の光がずっとついてくるので、すれ違った後の姿は見えないのではないだろうか。その光が減衰し、次第におぼろげに見えるのかも知れない。

お互いの位置を観測すれば、それぞれ同じ時間が経過した時には、同じ距離だけ離れているはずである。すると、A は c ,B は -c の位置に到達している。よって C から見れば、両者の速度差を計算すれば 2c となる(たぶん)。

もちろん厳密に言えば、光速の時、時間は 0 で進む(または距離が無限大)から、観測は不可能だと思う。光速で飛べば(それだけのエネルギーのある空間にいれば)、他の空間とは時間の進み方が変わる。時間の進み方が変われば観測結果も変わる。まるで温度が下がるほど粒子の振動数が0に近づくように時間の進み方も遅くなる。果たして絶対零度にある粒子は時間が経過しているのであろうか。

さて、4次元は3次元に時間を加えた時空という概念であるが、4次元を3つの空間とひとつの時間ではなく、4つの時間、または4つの距離と考える事も可能であろう。

では4つめの時間(距離)は何か、という話である。

概念だけなら4つの距離として4次元の説明は可能なはずである。だが4つ目の距離をどの方向のベクトルかと想像するのは難しい。我々の世界からは見えない4つめの方向がある、と考えられるからである。この世界では4つめの方向を目視できない。目に見えるものを距離、見えないものを時間と呼んでいるようである。

3次元の住人が2次元の住人と通信した時、3次元の物体を MRI の輪切り画像を2次元に送り付ければ、3次元の情報を伝える事ができる。しかし、2次元の住人はそれを重ねる事が出来ないから、平面に並べて眺めるしかない。これはレントゲン写真を横に何枚も貼り付けて見ている医者と同じである。

医者はそれらの情報から体の中で何が起きてるかを脳の中で立体視できるが、2次元の住人に立体視は無理そうである。もちろん、彼らは3次元の概念を知らないのだから理解できない、という結論はあり得ない。

2次元の住人の脳の中に3次元を構築する能力はなくても、並べた画像をアニメーションのように順番に流せば、それを時間変位における変化量として高さを捉える事が出来る。こうすれば、2次元の人でも3次元の高さを処理する事はできそうである。もちろん、2次元で時間が流れているのなら、それは3次元ではないか、という疑問もないではないが、その辺りは専門家の領分である。

またこうも考えられる。2次元の人が時間当たりの高さの変化を横軸に取れば、高さの変化を2次元だけで、つまりグラフで表現できそうである。この時、横の情報は欠落するが、3次元の高さを縦の位置と関連させて理解する事はできるであろう。

この話を援用すれば、4次元の時間(距離)も、3次元で表現することは可能と思える。ガウス平面みたいなものだろうか。

と、ここまで書いてきたが、もちろんこれらの話にはたくさんの誤りがある。信頼しないように。そもそも間違わない事は神の専権事項である。

さて、3次元空間の話である。元来ゴルフの話であるから、光速などどうでもいい考察なのである。

トップに掲げたクラブの向きは、ボールに当たる時には正面を向いている。右上にあるクラブヘッドの向きが、ボールの正面から当たる軌跡を通らなければならない。それも重力に従って無理なく進まなければならない。

  1. クラブは重力の影響を受ける。
  2. 体がクラブに運動を伝えるのは、グリップだけである。

つまり、ゴルフクラブのモデルは、棒の端っこを動かす事で得られる軌跡である。

この時、
  1. クラブは、完全な円運動ではない。
  2. クラブの中には円運動の中心は位置しない。

これに加えて、クラブには捩じられる力(トルク)が働く。

なにより、かれより、クラブヘッドはトップの位置では上下逆さまになる。上下をひっくり返して元の位置に戻す運動である。

トップの位置から体が正面を向く間に、クラブはその何倍もの大きな距離を移動する。この時、注意すべきはクラブが回転する中心軸はクラブの中にはないし、一点に固定されてもいない。クルクルとバトンを回すのとはそこが違うのである。例えるなら両肩と腕でできた井桁ようなものだろうか。これは左腕と右腕が交差する動きである。

クラブヘッドは右から左への直線運動ではなく、左上後ろから真ん中前下という立体的な移動をする。

このゴルフスイングの動きに体の方を合わせてゆかなければならない。前のめりになり過ぎれば肩が腕の動きを邪魔する。ボールに近づき過ぎれば、腕が縮んでしまって上手く回らない。肘はもっと体に近づけた方がいい。体はあまり前傾にしない方がいい。

打つ前に、クラブがそこに戻ることを意識する。それを単純に言い切ってしまえば、クラブヘッドの上下をひっくり返せ、という感じである。それをスイングの中に入れる。

人間には完全な自由意志などない。ただ、クラブの軌道を見つけ出し、その中に納まるようにスイングするだけである。所詮はゴルフも重力のスポーツである。それを超えることは出来ない。

2016年7月8日金曜日

練習場より 2016.07.08号 - 打つ前の選択

体にはグッドな通り道がある。腕と体の間には適切な距離がある。

それは自分が思った所よりもずっと近いようである。

それをスイングの前にこの辺りかなと一瞬でもいいから考えてみるとよく分かるものである。

クラブは重力に逆らって落下する訳にはいかない。その重力がどう働いているかも、少し動かしてみれば分かるものである。

スイングする前にそれらを確認しているか、していないかで、スイングの結果は大きく変わるだという話である。

そして、今回はどうすればいいのか。

それは打つ毎に想像してみるしかない。

どの道を通ればよいかは最初に決まる。

そう考えれば、選択肢は最初に選ぶしかない。

結果は当然の帰結に過ぎない。

江夏の21球が絶賛されるのは、あり得ない場所で方向転換をし、それが成功したからであろう。

我々は思った以上に、先に決めておかなければならない。

気付いた時にはもう手遅れなのである。

もちろん、打つ前に全てが決まるのではない。

スイングは少しとはいえ微調整が可能である。

つまり、スイングの中にも途中では変えられないものと、途中でも変えられるものがある。

体と腕がどれだけ近づくかは、打つ前に決めなければならない事の一つだと強く思う。

それを無意識でやっていると、思ったよりも遠くになる。

何故そうなるか。

それは肩の位置が関係している。

肩が前にあるか、横にあるかの違いと思われる。

人間はその軌跡を後から知る事しかできない。

そして、それを知りどう働きかけるかの自由だけが存在する。

それは意識しなければ失われる。

2016年7月5日火曜日

練習場より 2016.07.05号 - フーリエと波の合成

体の中で発生する力を波と見立てれれば、スイングは波の合成として単純な足し算で表現できる。

波が一致した場合は、波は加算されて大きくなるが、複数の波のタイミングがずれて一つの所で重なり合わなければ、力は合成さないか、あるいは負の方向に合成される。

スイング時の波をフーリエ変換すれば、小さな力の合成である事が分かるであろう。またスイングを微分してみれば、単純な加減速の運動なのか、それとも何度も発生する力が波状攻撃のように繰り返し合成されて発生しているかも分かるかも知れない。

体はトップの位置から次の順番で動いてゆく。
  1. トップ位置からの肩の動き
  2. 脇腹の動き
  3. 央腹筋の動き

腹筋が中央から左を向くように動く時、体は全体として左に開く。これは力の開放と言ってよい。これらの動きが波のように右から左へと順次伝わっている過程で起きる。

クラブの動きは体の動きと比べると異なる振幅で遷移する。体の動きを一定の波とすれば、クラブの動きはそれよりも遅く動き出し、加速して、体の波を追い抜いてゆく。

クラブが体の波を追い抜く時、体の波とクラブの波がインパクトで合力るのが望ましい。ドライバーの場合、体の波が先にインパクト位置に入り、その後からクラブが追いつくイメージである。その時、追いつくまでに体が先行すれば力は合成できない。

ボールの位置が左足のつま先側にあるのはこの遅れに対する許容幅を定義しているからである。中央位置で体の波に追いついた時にクラブの速度が早すぎるため中央からつま先までの時間差が発生するのである。

しかし、いずれにしろ、追いつくまで体は開いてはならない。そのため、瞬間とは言え、体の波を止めたまま後ろに追い越させるイメージが必要となる。

これがタイミングが合わせるという事だろうと思う。タイミングが合えば波は合力される。異なる二つ以上の波が総員合わさるのが重要と考える。


力がばらばらである場合。


力が波として一致した場合。