2016年2月22日月曜日

練習場より 2016.02.19号 - なぜスイングを意識したいのか

車のギアチェンジを意識せずに、体が勝手に動いてコントロールできたら気分がいい。気分がいいのは脳がそれを効率的と認めたからである。脳は効率の良さに興奮する。そしてニューロンは強化される。これが脳の価値観のひとつである。

その価値観はゴルフのショットでも同様のはずである。所がゴルフスイングでは意識してコントロールしたいという思いが強い。そこが車の操作とは違う。ゴルフスイングでも勝手に自然と体が動いた方が良さそうなのに、それと反発しようとする意識がある。

それは何故だろうかと考えた。

そこから得た結論は、車のマニュアル操作は何が効率的であるかが明白である、に尽きた。目標がひとつに決まっている。それはスムーズさである。つまり、究極は時間である。狙った位置に最速で移動すればよい。それが気持ち良さの正体である。究極は速度に極まる。その操作に意識の介在は少ない。少ない方がよい。意図した瞬間には既に腕が動き終わっているくらいで丁度いいのである。

こういう動作は基本的には何回か練習すれば身に付くものである。もちろん、プロのレーサーのそれは、ギア比やパワーロスなどの精度が全く違う。動きは似ているとは言え、気にしている事も筋肉の使い方も全く違うかも知れない。それはスズメバチとヒラタアブほどの差があるかも知れない。

自動車の運転とゴルフスイングは少し違う。ゴルフスイングの価値は速さではない。遠くに飛ばしたければ速度が重要であるが、それが究極の目標になるわけではない。スイングは、距離、方向、ボールに与えられた回転など複雑な運動をボールに与える。

自動車が早いというのは、ボールが飛んだという事であって、ゴルフスイングによって得られた結果が良いことと、ゴルフスイングが上手くできたという事は違う。上手く振れても結果が悪いこともあれば、ヘボくても良い結果になる事もある。

つまり、スイングを無意識で動かすには、何かが足りないのである。それを脳は意識と呼ぶ。意識とは不足したものを探そうとする働きであろう。何かを見つけようとする方が見つかる可能性は高くなる。

何をどうコントロールして良いかが脳がまだ分かっていない状態。その何かを脳に教えなければ、ゴルフスイングは完成できない。そういう状況にあるのだろう。それを満たさなければ気持ちいいにはならないのである。

ではゴルフスイングの意識とは何であろうか。
  1. ひとつ、飛ばすためには体とクラブをどう動かすべきか。
  2. ふたつ、方向性を決定するには体とクラブをどう動かすべきか。
  3. みっつ、スライス、フックを打ち分けるには体とクラブをどう動かすべきか。
  4. よっつ、バックスピンするには体とクラブをどう動かすべきか。
  5. いつつ、回転を強くするには体とクラブをどう動かすべきか。

意識できれば完璧にできるわけではない。体が勝手に動くのが完全なスイングでもない。トッププロでさえ必ず成功できるとは言えない。それでも自分が気持ちいいと感じられるスイングになれるよう目標を持つのが良いと思う。

意識してスイングしたいという欲求は、脳からの、だけど、どう打てばいいか分からないよ、というメッセージである。それを解決すれば、脳は、自然と体を動かすようになる。意識の介入を必要としなくなる。

体が覚えるという効率の良い気持ちよい領域に這入れる。意識してやっているうちは、まだ未解決の何かが残っているのだ。少なくとも脳はそう訴えている。

シャーロックホームズのように、誰もが注意しない事を、意識して考える、探してみる楽しさは、どのレベルでも味わえるものである。それはゴルフだけの話ではない。恐らく完成というものはない。いつか我々は物理法則さえ変える手段を見つけるだろう。

誰もが自分なりの方法でゴルフスイングを修正してゆく。設計レベルの低い整備の整った機体は、く設計レベルの高い欠陥機に勝る。ポテンシャルだけの勝負ではないのである。

2016年2月19日金曜日

練習場より 2016.02.19号 - 脳は効率化を貴ぶ

例えば、グリーン周りでのアプローチを考える。足りなかったショットは直ぐに忘れるが、オーバーしてしまったショットは、長く印象に残るものだ。

残り距離が例え同じだとしても、印象の強さは全く違う。同じミスであるのに何故こうも違って感じるのか。それを脳は効率化を貴ぶからだと解釈すれば納得できる。

効率化とは、最短時間でとか、最小の力でかあるけれど、一般的には最小のエネルギーだ。ある目標を達成するのに投入されたエネルギーが最小であることを良とする。これは生物の史上命題でもあって、エネルギーを常に外部から取り込まなければならない生物にとって、その効率の優劣は死に直結する。

効率の観点からショートとオーバーの失敗を分析すれば、ふたつの間にある違いは明白である。

目標までの距離を10と仮定する。足りないショットはその足りないのを加算してゆけばいつかは10となる。

ところがオーバーしたショットは既に10以上のエネルギーを投入していることになる。そこから後戻りしてもエネルギーの総量が減ることはない。

足りないショットでも足してゆけばどこかで目的地に届くうえ、その過程で無駄なエネルギーは使っていない。しかし、目標地点を通り越したショットでは、無駄なエネルギーがすでに投入されているのである。10の距離を行くのに、すでに12も使ったのだ。

よって、足りない失敗よりも無駄にエネルギーを浪費した失敗の方が、効率という観点から強い印象が残るのは自明である。足りないのはひとつの失敗であるが、オーバーしたのは、失敗の上に、無駄なエネルギーを浪費したというふたつの失敗が重なっている。

もちろんここで、急がば回れ、道草にも意味がある、という格言を思い出すのだが、これらの言葉の存在が、逆に言うなら、脳が如何に効率化を最上の価値観としているかの証拠となっている。

大は小を兼ねるということわざが価値を持つのは、超えない方が良いという前提条件があるからだ。価値観の逆転、既存へのアンチテーゼとなっている所に価値があるのである。

届かなければ絶対に入らない、オーバーさせなければ決して入らない。これもパターでよく聞くアドバイスである。それほど迄、ショートには寛容でも、オーバーには繊細なのだ。

過ぎたるは猶及ばざるが如し、孔子のこの言葉は逆に超えた事への戒めとなっている。たすきに短し、帯に短しもちょうど良さへの回帰である。

これらの言葉は、超えたなら良しとするゴルファへの戒めとなる。ショートを克服したら、次は、超えたから良しとするようになるのである。

よく攻めた。失敗してもこれならナイストライ。それを脳が受け入れてしまう。それで良しとしてしまう。目的が脳の効率化の克服に変わったからだ。

足りないのが悪いは誰にでも分かる。しかし、超えてしまうのもやはり良しとは言えない。その自覚がなければ、次第に超えることだけが目標になってしまう。

人間の脳が持つ自然さ、錯覚の多くもそれが原因で起きてしまうのであるが、効率を追求しようとする脳の癖も、その自然さの一つであろう。自然のまま働かせていては、ショートした、オーバーしたという印象だけが残ってしまう。

それは脳が錯覚したのだ。脳のそういう自然さと言うものは当然だがゴルフというゲームを理解できない。本能に近い所で自動調節機能として働いているそれは、個々の運動の効率化を採点しているだけなのだ。

だからそれだけを働かせない。如何に効率的に近づけるかだけを考えるから、足りない方が良いと信じてしまう。そうではなく、目的は次に最も打ちやすい所はどこか、そこに移動すると考えるべきなのだ。

もちろん、次のパター数が 0 というのが最も良い移動である。だが仮にそれを外したとしても、どこにあるのが常にベストであるか、を考えているならば、脳はもうショートした、オーバーしたという言い方をしなくても済むはずである。

次第に言葉からも消えてゆくはずである。

2016年2月13日土曜日

練習場より 2016.02.13号 - タイミングの確認

人間の反応は、外界から得た情報を処理するのに 0.1秒、運動神経が命令を伝達するのに 0.1秒。反応に要する時間は合計で 0.2秒と言われる。

この短い(コンピュータから見たら莫大な)時間に感覚細胞からの到達した電気信号を映像なり音として解釈し、状況を認識し、次の行動を決定する。そこから脳の情報処理のサイクルは最短で 0.02 秒程度と想定する。

人間の生物学的速度に従う限りでは、物理学はニュートン力学で十分であり、それ以上の速度は必要ない。知ることができても反応が間に合わない。アインシュタインの相対性理論を必要とするのはコンピュータであって人間ではない。

脳の処理速度をどれだけ早くしても行動できなければ無駄である。それは効率的ではない。無駄を取り除くのが進化の方向性だから、必要以上の能力は発展しないはずである。

身体に危機が迫った時の情報処理はどれだけ時間があっても足りない。事故の時、まるでスローモーションのように見えたという話も脳のサイクルと無縁ではあるまい。緊急的には、クロック数を上げているのだと想像する。

当然ながら命令が伝達するまでにはタイムロスがある。そこには生理学的に限界もある。情報処理をしても間に合わない事もある。それを回避する方法はふたつ考えられる。

ひとつは諦めてしまうことである。間に合わないのなら見捨てる。これがひとつ目の方法。もうひとつが、間に合わないのなら、間に合うように命令を出せばいいじゃない、という方法である。

つまりタイミングを合わせるのは、反応によって起こすのではなく、予測に基づいて、あらかじめ命令しておくことである。

例えば野球でフライが飛んでくる時、刻々と変わるボールの情報に反応するのでは遅い。最初の情報から予測し移動を開始する。そういう方法で間に合わせるのである。

このとき、予測する精度は最初は大雑把でよい。それを何度も経験することで学習し蓄積する。過去の情報に基づいて、予測を立て、先に命令を出す。

経験のフィードバックが下手だと何回やってもボールが取れないという事になる。あるタイプの人は、基本的に予測を信頼しないという前提を持つ。予測はあくまで予測であり、それが外れた場合のことも考慮しなければならない。

そういう人はフライを取るのが苦手だろう。逆に言えば、外れても良いから予測に従うよう振る舞えば、捕球も上手くなるだろう。もちろん、最初に持っていた懸念は常に付きまとう。それが大切な場面で現実のものになったりするのだ。

それでも、予測は外れるとしても、刻々と変化する状況に微調整して修正してゆけば良いのではないか。ボールの運動が予測不能なカオス的なものでない限り、この考え方で対応できそうである。それを微調整など無駄である。確定するまで動けないという方法論を採用すれば、間に合わない状況があるのも確かだ。

ゴルフのスイングもタイミングを取るには、前もって命令するしかない。微調整するにはスイングは余りに一瞬である。

あらかじめ命令を出しておくので、感覚的には、それが到達した時には遅すぎたのではないか、早すぎたのではないか、と感じるのは当然である。しかし、それが物理学的には丁度いい場合もある。感覚と実際との乖離は、神経の限界速度あたりでは極めてグレーな精度でしか把握できそうにない。

当然ながら脳もその影響を受ける。遅すぎたか、早すぎたか。これを確認する方法がない。結果から、迷いながらも試行錯誤を繰り返すことになるだろう。

決定的な証拠がないから、疑念を持つのは当然であるし、それは合理的な疑いだが、とても重要なことは、体感では恐らく知り得ないという事である。

よってこれは実感によってなど確認できるものではなく、過去の経験から、こういう場合は上手くいっている、こうなったら上手くいかない、これは悪い予兆だ、無意識の中から何かを訴えてきている、という声に耳を傾けけるしかない。

それでも人間の体調は日々変わるものだし、筋肉の疲労や衰えがある。過去の経験がいつまでも同じように使えるとは限らない。

当然ながら、これは経験であるから、あくまで個人的なもので、正しいと証明できるようなものではない。常に疑念を抱えつつ情報処理するしかない類のものである。これを前提にスイングのタイミングを取る。

2016年2月11日木曜日

練習場より 2016.02.11号 - 右足の太もも

腕を振り回すとき、適切な弧がある。距離が長すぎでも短すぎてもよい回転は得られない。個体差があるので体格や筋力によって異なるだろうから、軽く振りながら適切な位置を模索するしかない。

それが自分の理想とする円周よりも小さくなったとしても、それは受け入れるしかない。ある意味でスポーツとは己の理想が物理的制約によって屈服させられるものだと定義付けても良い。

基本的にスポーツは負けているのである。テレコキネシスで何かを動かせるわけでもない、岩石を破壊するだけの筋力もない、例え壊せたとして、それに耐えられるだけのカルシウムの結合など存在しない。

航空機は、3次元の空間で三つの方向に回転しようとする。それぞれをローリング、ヨーイング、ピッチングと呼ぶが、進行方向にX軸を引けば、ローリングとはX軸(進行方向)、ヨーイングとはY軸(上下方向)、ピッチングとはZ軸(左右方向)への回転である。

もちろんゴルフではこんな回転は起きないが、長い棒状の物には自然と回転しようとする力が生じる。それはシャフトのトルクもそうだし、スイングも回転である。

思えば何もかもが回転しようとしているらしい。量子からしてスピンするし、ボールも回転しながら飛ぶし、地球も自転しながら公転する。力が加わったとき、重心のわずかなズレが回転運動をするのだろうか。だとすれば、ゴルフクラブが回転しようとするのは自然の理である。

回転により、ある空間内で最大の力を得ようとするのがスイングの目的であるが、最初の構成要素が自分の体である。身長1mの人が3mの弧を描こうとしても無理があるように、最適値にある方が、そこから外れるよりもパフォーマンスは良い。

ただ問題となるのが人間はどれが最適解かを知りえない事である。それが最高のパフォーマンスなのか、それとも、もっと良い解があるのか。それを誰も知りえないのである。アルファゴが人間には思いもよらぬ手を打った様に、世界のトッププロでさえ、考えていない手がある。今の自分の考えている手が最上という証拠などどこにもない。

いずれにしろ、ひざを痛めていたので、これまでは片足だけでスイングしていたようなものである。片足軸に近かった。

それはケガした足を更に悪化させたくなかったからであって、それには合理的な理由があった。しかし、右足をスイングに参加させる方がよさそうである。

ではどうするか。少しだけ参加させることにした。スイングの時に、意識して右足の太ももに力を入れるようにしてみた。単に筋肉を収縮させるだけで、何かを踏んだり蹴ったりする必要はない。

それでも劇的に変わるのである。ただ力を入れるだけで、体全体の何かを変える。

筋肉が緊張すれば、体を固定する働きが生まれる。それは外部に対して力を与えなくとも、体の中に支柱を建てるような効果があるようだ。

打つ時に、体幹を支える左右の動きが両足によって固定される。従来、それを片足だけで支えようとしていたのに両足を参加させたようなものだ。

それがスイングの安定をもたらすのみならず、力をボールに伝えやすくするようだ。これらの効果をもたらす体の安定性は両側の太ももの筋肉を使うことで実現できるようだ。

そうすると、足に障害を持っている人は、この働きができないという事になる。体を安定させるのは必要なことだから、両方の太ももを使うのとは別の方法を探し出す必要がある。ゴルフは健常者だけのものではないから、こうして色々な発見があるのは楽しい。

2016年2月7日日曜日

練習場より 2016.02.07号 - 肩こりと筋肉の緊張

多分であるけれど、筋肉は常に緊張状態にある。椅子で寝ても落ちないのはその証拠だろう。死体ならずるりと落ちる。

脳は寝ている時も筋肉の緊張を司る。脳がそういう指令を出しているのだから、随意筋と言えども意志の自由になるとは限らない。脳は意識に叶った動きをするが、意識が筋肉の全てに命令を出しているわけではない。

だから脳の命令を邪魔するように意識が介入すれば、運動全体のバランスは崩れるだろう。脳は瞬時に応対しようとするが、それにも限度はある。

意識が筋肉の緊張を完全に取り除くのは難しいように思われる。ヨガがそういうのを目指しているかは知らないが、脳には脳の都合がある。意識は自分が主人だと思っているが、脳が彼/彼女を主人だと思っている感じはない。彼/彼女は与えられた仕事をただこなす為だけの存在にも見える。

同じ姿勢を続けたり、痛めた場所を庇い続けていると、脳はその緊張を解く時間が作れない。これがコリの原因ではないか。

腕立て伏せや懸垂をしていると疲労によってそれ以上続けられない状態になる。疲れれば、運動をやめる。短期的な疲労はこうやって回復できるが、おそらく肩こりは長時間に渡る軽い疲労の蓄積だろう。

疲労は血行によって解消されると言われるが、もちろん血が止まれば壊死するのだから、血行は滞っていないはずである。という事は血行だけでは疲労は回復できない。

肩こりが原因として頭痛が起きる。気分が落ち込む原因にもなるだろう。そういう時には、柔軟体操やラジオ体操をしたり、スポーツで気分転換をはかったり、マッサージを受けたりする。

このメカニズムについて自己流に考えてみた。すると重要なのは、緊張を如何に解除させるかという所に行き着いた。これは別の言い方をすれば、脳が出し続けている命令を如何に停止するかである。

脳は必要であるから命令を出しているはずである。これは姿勢を維持するためであろうことは間違いなく(何らかの障害によって麻痺が起きている場合は除く)、これを解除するには、いくつかのパターンがある。もちろん、姿勢を変えれば治るだろうが、その方法で治ったケースは殆どない。

基本は脳に別のことをやらせる事である。他に対処しなければならないシチュエーションを生み出す事で、緊張をほどく。緊張が瞬間的にでもほどければ楽になるのだ。脳が忙しい状況になれば、プライオリティの低い命令から面倒を見れなくなってゆくはずだ。その中にコリの原因となっている緊張せよが解除できれば十分である。

咄嗟に反応しなければならないような状況に置かれれば、例えば危険を伴うような、脳はそれへの対処のために集中する。それは他への意識がなおざりになるという事でもある。こうして必要性の低い命令は脳自身も忘れるのではないか。そういう状況を作れば解消できるのではないか。

その代表的なものはスポーツではないか。こけたり、倒れたりしている間に次第に調子が良くなっていくのではないか。脳が危険に対処する他の例には、事故や、風邪などの病気も考えられる。風邪から回復したときに、なんとなく体が軽く感じるのは、そういう理由もあるのではないか。

その他として、痛みへの対処で緊張が解ける場合もある。代表例としては足つぼマッサージがある。痛みをある場所に与えると、脳は痛みへの対処を優先するため、他の場所への命令を解除するように思える。痛みが収まればまた命令を出すとしても、数秒でも緊張がとければ楽になるものである。

整体やマッサージではツボを刺激することで、緊張を取る。神経を刺激する事で脳からの命令を混乱さえているのかも知れない。神経への刺激という点ではセックスも同様で、絶頂に達することで脳は緊張を解除しているのではないか。

  1. ツボ外し - 「そこにツボはないんだけどなぁ」
  2. 方向違い - 「場所はそこでいいけど、ちょっと方向が」
  3. 深さ足らず - 「そこそこ、もっと深く押して」
  4. 力弱し - 「そこそこ、もっと強く押して」
  5. 回数足らず - 「もっと何回も押して」

スキーで右足の前十字靭帯を損傷をして以来、常に右足をかばう生活をしてきた。その命令は強く、歩くにも走るにも、ゴルフのときも、右足の保護が最優先だ。

だから、右足を使う時は、ひざをひねらないように注意し、固定するようにしてきた。ところが、どうやら右足の筋肉と、左肩、左肩甲骨の筋肉は連動しているらしい。右足を使わないことによって生じたアンバランスを、脳は左肩の筋肉を緊張させることで取っていたようである。

逆に、右足の筋肉を使う、例えば、右足で一本足立ちして屈伸すると、左肩、背中、首などの緊張が緩むようである。どこかの筋肉が緊張すれば、他の部分が緩む。筋肉への命令はどうやら連動しているようである。

お風呂で浮居ているときに、右足の筋肉を意識して緊張させるだけで良い。負荷をかける必要はない。緊張する命令だけで十分に肩こりが取れる。

さて、単にこれだけでは凝る位置を変えただけに過ぎない。A地点からB地点に変えただけである。そこでどうしなければならないかといえば、緊張する場所を循環させればよい。休息と緊張を繰り返してゆけば、一か所に留まらずに済むだろう。

ということで、右足を使うことが新しい課題である。ひざを痛めているので、それを保護したうえで、しっかり歩く、しっかり屈伸する、右足の筋肉を使うという事を行ってゆく。それが、ゴルフのスイングに影響を与えないはずはないと確信している。