2015年11月29日日曜日

練習場より 2015.11.29号 - 肋骨の強要

肋骨は魚類はもとより、両生類、爬虫類、鳥類をはじめ、すべての哺乳類が有し、外部からの衝撃に耐えるほか、呼吸に必要な容積を確保するためにある。その役割は、内骨格よりも外骨格の機能に近い。

全く動かないというわけではないが、肋骨の可動域は狭い。それは人間の体の中でも特に一体となって固定された部分であろう。つまり肋骨を一本の円柱と考えれば分かりやすい。

首や肩が動けば自然と肋骨も動く。すると、その影響は肩だけに留まるはずもなく、腰にまで及ぶ。左肩を下げればお腹の右側が上がろうとするし、右肩を回すならば、お腹の左側は反対側に回転しようとする。

これは首や肩の動きがそこだけで完結しないことを意味する。逆に、お腹が動けば、それは肩や頭の位置にも影響するという事である。

だから、意識しなくても知らぬ間に上半身が大きく動いている可能性がある。肋骨は一体となって動くから、頭が少し動いただけでは済まない。肋骨の両端にある肩や腰が動けばそれは肋骨を通じて上半身全体に伝わる。当然ながら腰が動けば足にも影響を及ぼす。

ゴルフスイングでは、頭を動かさない、背骨を動かない、と言われるがこれは実質的には不可能である。頭が動かずにスイングできるはずはないし、背骨も動く。しかし、その意図が『肋骨を大きく左右に動かないようにする』であれば納得できるのである。

肋骨が大きく動けば体は大きく動く。それは肩の向きや腰の開きを変えるだろう。そうなればスイングの正確性は期待できない。

2015年11月7日土曜日

GOLF 2015.11.07号 - おともだち

おともだちルール。アメリカ軍のトモダチ作戦とは関係ない。

チーム戦はこれまでもやっていた。チーム同士でスコアの合計を競うものである。しかし、そのルールはぬるいらしい。

おともだちルールでやってみないかという誘いである。これはもう覚醒剤とか連帯保証人への誘いと同じくらいに怪しい。きな臭さプンプンである。

でやってみた結果。

いい。これはいい。何故ならホールアウトするまで緊張が尽きないから。

一打の行動が自分に跳ね返ってくる。自分のスコアが勝敗に影響する。仮に悪いスコアでも気は抜けない。差を小さくするために最後まで諦めてはダメだ。まるで新垣結衣ちゃんと一夜するくらいの緊張感である。彼女に何と言われようと成功も失敗も受け入れ最後まで進まねばならない。

おちもだちルールが強いる緊張は真にゴルフをがらっと変える。本当に心理とは分からないものだ。状況が行動を強いる。決して緩まない緊張感。

パーを取るよりも、両者の差が縮まった時の安堵感。まるで半目勝ちこそ至上の勝利とする囲碁のようだ。

呉清源の調和という考え。調和しながらも決着する辺りが、僕にはよく分からないのだけれど、調和の中にこそ本当の勝負がある、という慧眼ではないかと勝手に敬っている。一方的な勝利など低俗な趣味に過ぎない。弱い相手を選べば簡単に手に入るそんなものに何の価値が認められると言うのか。

互いに気を緩められない、気が抜けない。相手の全力に自分の全力で対抗する。拮抗する力でなければそのような調和は生まれない。そうして得られた勝利しか勝負とは呼べないのではないか。

だが、そういう境地に自ら入り込むのは難しい。人はすぐに安心してしまう。気が緩んでしまう。自らを強く律することは棋士でさえ難しい。だから人は自分を追い詰めるための何かを必要とするのかも知れない。

あの大山倍達でさえ山籠もりの時は眉毛をそり落とさねばならなかった。それと同じものがおともだちルールにもありそうだと言えようか。

顔を紅潮させねばならぬほどの緊張は本当に久しぶりである。たったチロルチョコ一つからさえも、そのような体験ができる。まずそれに驚いた。これは今までにない新しい経験、緊張だった。

ところで、おともだちルールではゴルフのスコアさえ気にしない、このルールでの勝利だけを戦略とする人もいるそうである。それは多分にその緊張が忘れられなくてギャンブル依存症に陥っているのだろう。それはもうゴルフではないだろう。

しかし、まぁ、破産して終わる程度ならば所詮は遊び、その範疇がお前の限界!とかってカイジには言われそうだ。違うだろう、たとえ地球を滅ぼしても、ギャンブルから抜け出せないのがギャンブルなのだ。まだ引き返せるのならギャンブルとは言えない。そうまでして自分の運を試したいとは、これはもう神への信仰に等しい。

神がいる、ならばこの勝負には勝たしてくれるはずだ。もし勝てないならば信仰が足りないのだ。そういう依存性がギャンブルにはある。あの瞬間の、カードをめくる、運を白日にする、神からの信託を受け取る瞬間が忘れられない。

そういう人にはもうじきいい薬が見つかるだろう。覚醒剤よりも安全な脳内麻薬をコントロールする薬が生まれるだろう。そうすれば薬で神を見られるようになるのである。ギャンブルさえ必要とせず人生の充実が得られるわけだ。そうなった時に、刺激で得られた快楽とか、自分の運にどのような価値が見いだせるだろう。

2015年11月6日金曜日

練習場より 2015.11.06号 - ワッグル

人には軸足がある。この軸から相対的な距離でもう片方の位置を求めている人もいる。この方法は相対的な位置取得であるから、当然ながら軸が移動すれば相対してもう片方の位置もずれる。

車の運転では、クラッチに乗せた左足を軸にしている。これは静的であらねばならず固定しておかなければならない。

もし軸を動かしてしまうと相対位置が狂う。軸足をクラッチから離してその左側に置くと、右足の相対位置はズレてしまい、クラッチがブレーキに、ブレーキがアクセルの位置に移動してしまう。つまりブレーキを踏もうとしてクラッチを踏み込んでしまうのである。

クラッチとアクセルの踏み間違いでもこのような状況が起きているのではないだろうか。相対的に足の位置を決めている人の場合である。それ以外の方法で位置決めをしているならその限りではない。自分がどのようなタイプか。軸となる足がどこに置かれているかは一度検証しておいても良いのではないだろうか。

で、ゴルフである。ワッグルである。これをしないスイングは考えられない。そう考えるに至った。何のためにワッグルを行うか。

ボールに当たった瞬間の足の位置、体重の置き方を確認するためだと思う。ヒットするときの体勢を準備するための動作とも言える。その体勢は、来たるべき力を受け止めて、そのままフィニッシュへの形を作るためである。

ボールに力を伝え、それに負けることなくフィニッシュまでスイングを作る。そこをどう通過すればよいかを確認をしているのがワッグルとも言える。それを行った位置がスイングの開始点になる。

スイングに力は要らない。不要と言うより、スイングとは力を如何に抜くかに尽きる。力を抜くために最大限の力を発揮する。足腰がしっかりと体を支えなければ力など抜けない。

力を抜くとはふにゃふにゃではない。抗力に対抗して支える力を発揮しながら、あらゆる力を抜く。意識的な力は要らない。必要な場所には体が勝手に力を入れている。

これはオートマチックに動く機械だ。マニュアルではない。コマンドで操作できる場所は限られている。

まずは力を最大限に抜くこと。スイングには最大限に抜いた力以外は必要ない。意識的に発揮すべき力は在ってもごく僅かだ。

2015年11月5日木曜日

練習場より 2015.11.05号 - スイングの始点

ゴルフのスイングについて、とても誤解をしていた。スイングとはトップの位置から始まると思っていたのだ。

ゴルフのスタンスからフィニッシュまでは3つに分割できる。
  1. ① スタンスからトップまで
  2. ② トップからボールに当たるまで
  3. ③ ボールを打った後からフィニッシュまで



このうち、スイングと呼んでいいのは ③ だけである。

ではスンタスからトップまで、そこから打ち下ろす区間(①, ②)は何であるか。走り幅飛びで言えばそれは助走区間である。踏み切り線はボールの直前にある。ゴルフスイングとは、クラブがボールに当たってから始まると思えば丁度いい。

それは少し(可也?)おかしく聞こえるかも知れない。大統領が撃たれてから警護を開始してどうするという理屈は最もである。

しかし、それでもスイングはボールと当たった所から始まると考えて良い。それは大統領の警護を狙撃された所から考えるようなもので、逆算することで見えてくるものがある。これはスイングはフィニッシュだけを意識するという話である。

岡本綾子が「フィニッシュはスイングの通知表」と語っていたと記憶するが、よいスイングは自然とよいフィニッシュを取るという考えだ。だが通知表では飽くまで意識はボールとクラブのヒッティングの方にある。

そうではなくて、よいフィニッシュを作ることだけをスイングの目標とするのである。

勉強を頑張ったからテストで良い点が取れたと考えるのは間違っている。テストで良い点を取ることから考えるべきである。それでは子供の教育に良くないと考えるのは当然至極である。努力の結果がテストの結果として現れるのであって、テストのために勉学に励むのは目標を間違えている。テストで良い成績を取るために勉強するのではない。善き人生のために勉強をするのだ。

テストは、飽くまで自分の苦手を見つけ、何に納得できないかを把握するためにするものだ。苦手とは何か考え方に納得できていない所がある。それを見つけし克服することは望ましい事だ。

それは考え方としては正しそうだ。だが考え方を変える。それは方法論としては間違えている。人生はテストで決まるものではない。しかしテストを避けることも困難なのだ。そうであればテストに明確な目標を定めそれを達成すれば十分と考える方が単純である。

テストにターゲットを定め克服すれば学力も向上するだろう。60点、70点、80点というそれぞれが目標を決め、そのためだけの勉学をすればよい。もし明確な目標がなければどれほどの力を注ぎこめば良いかが分からないだろう。

不足だけを恐れるべきではない。過剰もまた恐れるべきなのである。目標がなければ無制限の努力が要求されてしまうのである。それは人間には不可能だ。もし cross the line をしているにも係らずまだ足りぬと思う者をどうやって止められようか。

フィニッシュは目標である。そこに定めればよい。なぜそれで十分かと言えば、フィニッシュを良くするには、その途中も良くなれけばならないからだ。

良いスイングと良いフィニッシュの関係は次のいずれかになるだろう。
  1. 良いスイングで良いフィニッシュ
  2. 良いスイングだが悪いフィニッシュ
  3. 悪いスイングだが良いフィニッシュ
  4. 悪いスイングで悪いフィニッシュ

良いスイングであればフィニッシュはどちらでも良いという考えがひとつ(i, ii)。この考えは全く正しい。たが問題がある。良いスイングは非常に困難なのだ。

次に良いフィニッシュであれば、スイングも良いという考えがひとつ(i)。この場合 (iii) は極めて起きにくいという推定である。

そこで良いスイングと良いフィニッシュのどちらが御しやすいかを考える。良いスイングを作り上げることは非常に困難だが、良いフィニッシュはそんなに難しくない。第一、ボールは飛んだ後だから気が楽だ。

良いスイングにはゴルファーの数だけあるだろう。しかし良いフィニッシュはそんなに難解なものではない。安定して立っており、肩が十分に開かれ、腕が正しく畳み込まれていれば十分だ。

しかも、フィニッシュだけで形が作れるはずもなく、スイングからそういう形になるよう運動しなければ出来ない。よって良いフィニッシュはスイングにも影響するのである。フィニッシュを変えればスイングも変わる。

良いスイングを目指すのに、トップから順を追って時系列にスイングを構築するのではなく、フィニッシュから逆向きに作り上げる。フィニッシュをよくするためには、どう動くべきか。

走り幅飛びなら助走をあれこれ考えるより飛んだ後の姿勢に注目する。その姿勢が飛距離に直結する。ならば飛行姿勢が良ければ遠くまで飛べそうである。しかしそれでは助走速度が遅くなっても構わないという誤った結論にならないか。

その疑問は当然である。しかし良い飛行姿勢をするためには自ずと助走も影響する。美しい飛行姿勢を取るためには、それなりの助走が必要である。逆に言えば、助走は美しい飛行姿勢から逆算されるべきであって、助走は過剰でも不足でも及ばないはずである。助走が早い程に遠くに飛べると考えるのは(正しいが) F-15 の離陸を見過ぎであろう。

こう考えてくると、打つ前にワッグルをする理由も明らかになる。あれは小さな素振りでもなければ、ボールにクラブをどう当てるかを意識するものでもない。フィニッシュがどう取られるかをイメージする動きと考える。

ボールに当たった所からスイングを始める。それくらいで丁度いい。意識がイメージする形と実際の動きは違う。実際の瞬間を捉えるのは人間の神経ではほぼ不可能だ。良いフィニッシュは完璧なフィニッシュである必要はない。もちろん完璧なフィニッシュに意味などない。それはゴルフの中のひとつである。

因果があって結果となる。ならば結果が変わるならば、それ以前に影響を与えないはずはない。目的地への経路は幾通りもある。西回りするもの、東回りするもの。南、北、南南西、東南西…球形ならどちらに向かおうが目的地には到着できる。ただ道中の苦労が違うだけだ。

だから、その中でも最も簡単な道から考えよう。まずふたつの地点を直線で結ぶ。この線を基準として考える。もっといい方法があるかも知れない。何か見落としがあるかも知れない。それには注意、警戒しておく必要があるが、基本的には見つけた時に留意すればよいとする。

目的地も知らずに目的地に到着することはほぼ不可能である。逆に、目的地から逆算すれば、だいたいの事は明らかになる。これは量子力学の観測結果から光子の過去が変わったとしか解釈できないような不思議な話(今はまだ)ではない。

もちろん、目的のために手段がある。手段のための目的ではない。手段のために本末転倒したり、目的が目標に置き換わらないよう注意は必要だろう。同時にその目的が他のあらゆる全てに優先するなどと思わないことも大切だろう。

目標地点を定め、通過点を定め、逆算する方法で経路を見い出す。意識ではボールが当たった所からスイングを始めればそれで十分である。それでも間違いなくそれ以前のスイングに影響を与えずにはおかない。

そういう地点が得られた。

2015年11月1日日曜日

練習場より 2015.11.01号 - 左肩と腕の連動

打ちっぱなしに行ったら、左手の指が痛くなった。第二から第五までの先端全部。

これは腱を痛めたのか、それとも筋肉痛か、今は見分けがつかない。けれど、当日ではなく次の日も痛いので、筋肉痛だろう。その可能性が高い。

ついでに頭も痛いのだけれど、これも肩こりに起因するのか、寒さで風邪をひいたのか。もう暫く経過観察である。しかし、今朝は起きれなかったので、風邪だろう。その可能性が高い。

さて、ゴルフである。

前回、左肩と腕が一直線になるタイミングがあるという発見をした。これは力のベクトルがある点で一致するという事である。

当たる少し前、腕がもう右足を通ろうとしている時に起きるようである。そのとき、足も体幹も腕も丸で一直線になるかのような、原子が一斉に同じ方向を向くことで磁力が生み出されるように、体の筋肉も同じ方向に一斉に向く感じである。

別の言い方をするならスイングバイである。体幹を惑星とすれば、腕は衛星である。体幹を周って重力加速を得る。もちろん体幹の重力が実際に加速を生み出すわけではない。これは単なるイメージ。体の回りを通って離れてゆくイメージ。その軌道がスイングバイに類似しているだろうというイメージ。

だけれどもイメージだけでは足りない。イメージだけではスイングへのフィードバックが足りない。

そこで別のイメージも探し出す。フィードバックできる何か。

スイングの途中までは、肩が腕の回転軸として固定されている。右足を通過する頃に、固定は解除される。すると肩が抜け、スイングは更なる加速が可能になるという感じ。肩が抜けるとは、簡単に言えば肩が後ろに引かれる事だ。

スタンスでは肩は正面を向いている。フィニッシュでは左側を向いている。向きが変わるためには運動が必須である。それはどのタイミングで発生するのか。肩を引く動きは腕を通じてクラブに伝わるので、連動が悪ければ横回転(フック、スライス)を与えてしまう。

どのタイミングが最適かと問われても説明は難しい。ただ肩の解除を解いた後ならば問題はないようである。それどころかスイングの威力が増大するようでもある。

だが、このフィーリングを伝えるにはまだ不十分である。さらなる検証を期待せよ。