2014年10月18日土曜日

GOLF 2014.10.18-19号 - 上手

ゴルフに行ってきた。上手い人がいた。

上手とはどういう事か、が間近で見られたのは非常に幸運な体験だった。

気付きと言うものは、実際に見る迄は分からない。百聞は一見に如かずと言う。ゴルフであれば上手な人のプレイである。

何かが違う、それが何であるかを言葉にするのは難しい。ボールがまっすぐに飛ぶ、カップの近くに寄る、ミスをしても、それをいつの間にか取り返している。言葉にすると何と簡単だ。

何かがある。そこにはゴルフに対する執念があったり、取り組み方がプレイに現れる。立ち姿や待っている姿、構え、そういう姿勢に出る。言動ではない。

上手な人と一緒なら上手くなる。姿勢が乗り移るから。上手に真似たのだ。下手な人と一緒なら下手が移る。下手に真似たのだ。上手い、下手は自分だけでは済まない。

上達の極意は真似る事にある。これは上手い人に師事せよと言う意味である。

「僕はあの人に勝ちたい」。これがガンダムを成長物語にした。そういう気持ちは相手と対峙してみなければ分からないものである。それは戦ってみなければ分からないものである。

上手さとはスイングでもなければ、ボールの飛翔でもない。スコアである。もちろん、これはゴルフのひとつに過ぎない。スコアとは関係しないゴルフもある。

スコアになるゴルフの代表はプロである。しかし、プロはスコアになるゴルフを見せているのではない。プロはゴルフで魅了しなければならない。スコアは重要だがスコアが至上ではない。スコアだけを追及するゴルフはトップアマチュアの方であろうか。そのレベルを超えた人だけがプロへと進むのであろうか。そして、ゴルフの神様を100とすれば自分は4か5である、という話をするのだろうか。

100のうち1しか見えなくても、見えているものがあれば、それだけ上手くなる。何も見えていないのと比べれば遥かに有利だ。見えている事が、自分の中にある妄想であったり、漠然としたコンプレックスや、思い込みを吹き払う。開眼だ。

見えればある方向へとまっすぐに進む。見えていない人がうろうろしている横をはっきりとある方向へと歩いてゆく。そして自分の見えていない所で立ち止まり、そこでうろうろするのだ。

子供の自由な発想から学ぶと言う話をよく聞く。これは子供を褒めているのでない。自分を如何に高めるかという意識の人はあらゆる所から学ぼうとする。子供の中に何かを見つけた。それは子供も知らぬ事だろう。そういう人は可能なら路傍の石からさえ何かを学ぶ。

スコアと結び付くゴルフがあって、その上に理想のスイングを追究したり理想の弾道が存在する。ばらばらでは意味がない。スイングの探求とは意識の具現化である。自分の体の動きを制御する事でゴルフをしたい欲求がある。この意識化というものが、ゴルフとどう結びついてゆくかが課題である。これがゴルフに対する自分の野望らしい。

ゴルフを自分でコントロールする、安倍信三の言う所のアンダーコントロールを目指す。コントロールとは、理想を追う事でもなければ、無意識でやる事でもない。現状を認識し、状況を理解し、判断し、選択する。ここに対話がある。対話を通じて自分で決めてゆく。

上手い人のプレーを見た経験があれば、相談がより具体的に、冷静に、客観的に、見ることができる。それは比較するに足る比較対象があるからだ。強い人、上手い人とプレーした経験がレベルを上げる。それが自分をガラッと変える。何かにこだわってなどいられない。勝敗は明白である。スタイルも考え方も改めなければとても勝てない。

決断しないゴルフはしない。

0 件のコメント:

コメントを投稿