2014年10月19日日曜日

GOLF 2014.10.18-19 II - 真剣師の立ち振る舞い

誰かが打った弾道を見る。球筋を見るという事がこんなにも大きな効用はもたらすとは。こう打てばいいんだ、というのを子供は自然と身に着ける。見る事でそれが当たり前になる。見ることで考えられなかった世界が広がる。子供のうちから触れた方がいい世界は確かにある。もちろん、それは囲碁だけではない。将棋も同じだ。

そういう自然と身に着くものがどういう所に表れるかと言えば、それは立ち振る舞いである。

立ち振る舞いを見ただけで出来るかどうかが分かる。上手に為ればなるほど、立ち振る舞いだけでどのような所にいるかも見抜くものであろう。逆に身に着いていない人というのは、仮に実力があるとしても何かが欠けている。ある意味、才能だけでやっているのであって、それはまた恐ろしい人なのである。そういう人は無意識にやっている可能性が高く、それを崩す方法は幾らでもあるとも思われる。

この立ち振る舞いの洗練さは見る時の指針になるだろう。そして人の立ち振る舞いは伝播するものらしい。良い人のも悪い人のも周りの人に伝播してゆく。

そういう前提に立てば下手と付き合うなと言うのは正しい。もちろんそういう付き合い方では脆くなる。下手を避けている人には下手を混ぜておけば勝手に自滅するのである。簡単に打ち崩す事ができるではないか。

自ら律すると言う言葉は己の立ち振る舞いが他の人に伝播するし、他の人からも伝播する。その事を昔の人は言ったのだろうし、それは今も同じ話である。突出した才能と才幹にだけ頼る無頼漢も魅力的だが、立ち振る舞いから身に着けてゆくのが上手への近道だと思う。

升田幸三が言った言葉があるじゃないか。

「わしはプロだよ。あんたは所詮アマだ。」

尾ひれ背びれとは言え小池重明は強かったのは間違いない。それはリーグ戦ではなく一発勝負の世界かも知れないが。

どうよ、立ち振る舞いのしっかりした正統派を、自己流の無頼派が破るのは其れはそれでロマンである。

2014年10月18日土曜日

GOLF 2014.10.18-19号 - 上手

ゴルフに行ってきた。上手い人がいた。

上手とはどういう事か、が間近で見られたのは非常に幸運な体験だった。

気付きと言うものは、実際に見る迄は分からない。百聞は一見に如かずと言う。ゴルフであれば上手な人のプレイである。

何かが違う、それが何であるかを言葉にするのは難しい。ボールがまっすぐに飛ぶ、カップの近くに寄る、ミスをしても、それをいつの間にか取り返している。言葉にすると何と簡単だ。

何かがある。そこにはゴルフに対する執念があったり、取り組み方がプレイに現れる。立ち姿や待っている姿、構え、そういう姿勢に出る。言動ではない。

上手な人と一緒なら上手くなる。姿勢が乗り移るから。上手に真似たのだ。下手な人と一緒なら下手が移る。下手に真似たのだ。上手い、下手は自分だけでは済まない。

上達の極意は真似る事にある。これは上手い人に師事せよと言う意味である。

「僕はあの人に勝ちたい」。これがガンダムを成長物語にした。そういう気持ちは相手と対峙してみなければ分からないものである。それは戦ってみなければ分からないものである。

上手さとはスイングでもなければ、ボールの飛翔でもない。スコアである。もちろん、これはゴルフのひとつに過ぎない。スコアとは関係しないゴルフもある。

スコアになるゴルフの代表はプロである。しかし、プロはスコアになるゴルフを見せているのではない。プロはゴルフで魅了しなければならない。スコアは重要だがスコアが至上ではない。スコアだけを追及するゴルフはトップアマチュアの方であろうか。そのレベルを超えた人だけがプロへと進むのであろうか。そして、ゴルフの神様を100とすれば自分は4か5である、という話をするのだろうか。

100のうち1しか見えなくても、見えているものがあれば、それだけ上手くなる。何も見えていないのと比べれば遥かに有利だ。見えている事が、自分の中にある妄想であったり、漠然としたコンプレックスや、思い込みを吹き払う。開眼だ。

見えればある方向へとまっすぐに進む。見えていない人がうろうろしている横をはっきりとある方向へと歩いてゆく。そして自分の見えていない所で立ち止まり、そこでうろうろするのだ。

子供の自由な発想から学ぶと言う話をよく聞く。これは子供を褒めているのでない。自分を如何に高めるかという意識の人はあらゆる所から学ぼうとする。子供の中に何かを見つけた。それは子供も知らぬ事だろう。そういう人は可能なら路傍の石からさえ何かを学ぶ。

スコアと結び付くゴルフがあって、その上に理想のスイングを追究したり理想の弾道が存在する。ばらばらでは意味がない。スイングの探求とは意識の具現化である。自分の体の動きを制御する事でゴルフをしたい欲求がある。この意識化というものが、ゴルフとどう結びついてゆくかが課題である。これがゴルフに対する自分の野望らしい。

ゴルフを自分でコントロールする、安倍信三の言う所のアンダーコントロールを目指す。コントロールとは、理想を追う事でもなければ、無意識でやる事でもない。現状を認識し、状況を理解し、判断し、選択する。ここに対話がある。対話を通じて自分で決めてゆく。

上手い人のプレーを見た経験があれば、相談がより具体的に、冷静に、客観的に、見ることができる。それは比較するに足る比較対象があるからだ。強い人、上手い人とプレーした経験がレベルを上げる。それが自分をガラッと変える。何かにこだわってなどいられない。勝敗は明白である。スタイルも考え方も改めなければとても勝てない。

決断しないゴルフはしない。

2014年10月15日水曜日

練習場より 2014.10.15号 - 若干後傾、右肩の立ち

このタイトルは若槻千夏とも読めそうだ不思議。

人間は足の上に乗っかっている動物である。これには重力がまずある。重力は質量によって生まれる。質量はヒッグス粒子から生じるが小さすぎてゴルフとは直接的には関係しない。

二本足(スフィンクスのクイズによれば時に三本である)の安定性のない上に腰が乗っている。人間には障害がない限りは優れたバランスが備わっている。重心の高さをバランスによって制御する。だから倒れる事は少ない。

動きに少々の崩れがあっても人間は立っている事ができる。それでも立ち方が違えば動きに関係するだろう。

こころもち後ろに乗るようにするのが良いスタンスだと思う。これが上半身の動きや崩れに対して安定性が高くなると思われる。

トップを作った時に右肩は開く。開くという感覚は、上に向かって立っているとも言える。

一般的にゴルフスタンスは前傾姿勢である。これは体幹が前傾姿勢になっているという事だ。

しかしスイングでは右肩が開き、立っている所を立ったままにさせる事が大切である。

トップの状態からどのように腕が通り抜けばスムースかを把握する。その途中にボールがあるのであって、ボールがある所を打つわけではない。

スイング速度を阻害するものに、左肩の開き、右腕の畳みがある。左肩がフォロースルーできちんと開かなければ、左腕が右から左に移動する動作を左肩が邪魔をする。それによって左腕は減速する。併せてスイング速度も低下する。

また左に移動する左腕を右腕が右から引っ張ればこれも減速の要因になる。

右肩の立った状態から、立ったままのスイングをすれば、右腕が邪魔する事も起きにくいようである。せっかく立った状態にある右肩を再び寝かせれば、右腕が左側に抜けなくなる。それが左側に向かう右腕の進路を右肩が邪魔をするようだ。

右肩は立ったままにして少し前傾した左肩を開く。それと連動するように両腕がスイング軌道を通る。このような動きを可能にするには、少し足の後ろ側、かかと側に重心を置いて体を安定させておく必要がある。

この安定性があると、両足で体の重心がある内側に向って押す感じで立つことができる。

さて、合宿間近である。練習場の人工芝にのホウライの池が重なって見えて来るのである。

2014年10月3日金曜日

練習場より 2014.10.03号 - 上に伸びる

トップする感覚は、体の下を通って、木々が空に伸び上がる様にクラブが上に向かう感覚だ。

そうすると、此れまでとは違った力が使えるような気がしてきた。

体の前から後ろに横を交差してクラブが後ろに通り抜ける時、背骨が反り返る感じがする。

背骨の反り返った形が体幹の向き、クラブが体の横を通り過ぎた後の形がクラブの軌跡。こうして板バネのような形を形成する。

すると、肩が開く感じがする。両側にある肩甲骨が近付くという方がより近いか。この方がパワーを生み出せるようだ。

何かがバネのような動きをする気がする。これがどういう骨と筋肉の働きによるメカニズムかは研究不足。

何かの反動を利用するのか、それともテコがどこかに働いているのか。

上に伸ばした方がクラブは重力の力をよく使えるようだ、自然に倒れようとする力をスイングに活かせる感じがする。