姿勢に対する感覚というものは、他の人には決して分からぬもので、個人が最後まで付き合うことになる一つである。どれだけ優れた人の体捌きも、その人と共に消える。そういうものは人の中にあり、決して人の外に出せないものである。
もちろん、残ってゆくものはある。理想的な体捌きや姿勢が他の人に影響し伝わる事がある。歌舞伎などの伝統芸能は子供の時分から見せてやらせてそうやって伝えてきた。それは直接的なコピーではない。あくまで真似るという形を通して伝え、少しずつ個性や年齢で違ってゆくものでもある。この伝え方はコンピュータのコピーよりも DNA に近い。
体の構造はよく出来ていて、大抵の使い方でうまく機能するものである。一通りの使い方しかできなければ人類はずっと前に絶滅していたであろう。何通りもの動かし方ができる。だからケガなどをしても乗り越えてゆく事ができるわけだ。このロバストネスは生来、備わっている機能であろう。
しかし、異なる使い方が出来る事は、その全てが同じという意味ではない。使い方が異なれば負担のかかる場所が変わったり、効率も変わるだろう。使い方の違いが、パワーの違いとしても出てくるだろう。
多く背中側の筋肉は弱い。そこを中心に使って首を支えれば、肩や背中に負担がかかるのは自然である。背中の負担が高くなれば、自然と痛くなってくるだろう。だから、そこではない部分の筋肉をもっと使うべきであろう。
そして負担が減れば、そこに自由が生まれ、その結果が他にも波及する。この全体のサイクルが他へと連動し、全体に与える影響はとても大きいだろう。ある場所の負担をなくすだけで全体が軽く感じられるだろう。
左右に偏りがあるならば、上下前後にも原因があると考えるのが妥当である。体はバランスを取る。それが出来ない場合、支えようとする。これが長く続けばコリとなって症状にでる。
基本的に常にバランスを取ろうとする状態であるべきだろう。バランスを取りづ付けるとは、負担する場所を次々と変えてゆくという事でもある。バランスを取るのに、どこかに中心を置く必要がない。というより中心を変えてゆくから動かし続ける事ができるのだろう。ならば、重心を固定しようとすることが間違いか。
人間の体では内蔵の配置が左右非対称である。障害や事故によってそうではない人もいるが。よって左右の重心の在り方は異なると考えられる。だから食事によって左右のバランスは異なるはずである。
人間は重力の影響を受ける。これによって重心の位置は、内臓全体があって、その上方に肋骨に包まれた部分が乗っかていて、その更に上に頭蓋骨という重しがある。これは垂直方向でバランスを取る基本構造である。
そしてこれら全体を骨盤が下支えてしているので、左右前後の偏りはこの部分から関係している。逆に、足の使い方がその上のバランスに影響するのも当然と思われる。
姿勢というと静的な状態と思い込む。だが実際にはバランスによって成立する動的なものである。微調節をするには動くしかない。静的な状態では微調整が行われていない。これがコリの原因となる。
バランスを取るためには動き続ける必要がある。普通は中心があるから、左右、前後、上下、斜めと方向が決められるように思う。すると中心を決めて、そこから左右前後上下のバランスを保てるように思える。そういう意識でいたが、中心を意識していると静的になる。動的であるとは中心を失う事ではないか。
2018年9月23日日曜日
2018年9月17日月曜日
練習場より 2018.09.17号 - 肋骨という三次元
一次元を生きるものは、線上を歩くのみである。その者が二次元以上の空間を想像することは可能だろうか。
直線上を生きる者は、直線上であれ、曲線上であれ、その次元内のすべてが直線として観察されるはずだ。そのため角度という概念を得ることは難しい。
しかし、一次元上で光を出せば、直線なら到達するが、曲線上ではなぜか光が届かない現象が観察されるはずである。それをどう解釈するかに苦労するであろう(光は縦波なので一次元には存在できないというのはここでは無視する)。
一次元の世界と二次元世界が交差しても一次元の者は何かが変化しているとしか認識できないはずである。三次元世界と交差した場合は、一次元の世界に、複数個所に同時に出現する変化として観測されるだろう。だがその同時出現性をどう考えるかはよく分からない。
二次元の世界に住む者は、三次元とどう考える事ができるだろうか。目の前で三次元世界が交差した場合、それはちょうど、MRIの画像のように次々と画像が切り替わってゆくように見える。
その画像が彼らの知らない方向(Z軸)に対して連続している事を発見すれば、彼らは三次元空間の入り口に立てる。だが、三次元を想像する事はできるだろうか。
一次元の者が角度を考える事は難しいように思われる。しかし、曲線があるならば、それを一次元の考えで理解する事ができる。曲線の存在は認知可能であって、それがより高次元との接点と考える事はできる。
二次元の者は角度を知っているので、もうひとつ別の角度があると考える事はそう難しくないように思われる。その角度が二次元X,Yではない方向、Zという方向を知る事はできないが、仮定する事はできるだろう。彼らは立体を組み立てる事は出来ないが、展開図を作る事は出来る。
それを組み立てたものがどういう形になるかを描く事はできるか、できないか。遠近法を二次元世界で見つける事はできるか、しかし、絵画で表現するものは二次元世界では生み出せそうである。
この話を先に進めれば、三次元空間に住む我々の世界に四次元空間が交差したらそれを観測する事は可能なはずだ。だが、それが四次元との交差であると気付く事ができるかは疑問である。四次元空間のみで観測される現象が何であるかを知らないからである。
更に上位次元の例えば五次元人から四次元空間について教えてもらった所で、どこまで理解できるものか。ただ何かがある事は認識できそうである。それを変数 x としてこの世界の中に持ち込むことは可能と思われる。それは一次元の数学でも同様ではないかと思うわけである。
というわけで、我々の体は三次元構造で出来ているが、これを無意識のうちに二次元として扱っていたとしても自然である。それが右の肩甲骨が体の中心へ引き寄せられる原因であると気付いた。
この左右のアンバランスさがコリの原因となるのは、体の中心がずれるためであって、昔から右を向くのはスムーズなのに左を向くのにはぎごちないのも同じ理由である。全体を制御するためにある部分を固定化する。
ある場所に支点を作れば、そこは動かなくなる。右の肩甲骨を中心によせて固定化すれば最初から右向きになる。そのため、右にはスムーズには動くが左には向きにくくなる。
二次元の面で全体を理解しようとすればそういう答えに辿り着くのも仕方がない。なぜ人間の体には肋骨が三次元空間を持つように存在するのか。胸骨が頑強に空洞を形成するのは、単に肺を守るためだけではない。
肋骨には上半身を制御する役割がある。腕も肩も頭も、謂わば肋骨の付属物である。その付属物にも重要な機能がある。もちろん、肺が潰れても心臓が潰れても頭が潰れても人は死ぬのであるから、重要度にそう大きな違いはない。
ただ、人間にとって大脳と手が(意識にとっては)重要すぎる、というだけの話である。
病は気からというが、全ての病気が気から起きるという意味ではない。うつ病でさえ脳の炎症であると言われる。だが、体の使い方に関して言えば、複雑すぎて何か一か所だけを意識してもうまく動かせるものではない。しかし、肋骨全体を意識して上半身を動かそうとすれば状況がかなり改善される。
これは意識というよりも無意識が、どこか一か所というよりも、全面的に、意識の刷新として起きるように感じる。
肋骨上に乗せた重心が安定すれば、クラブヘッドの動きをより意識した軌道や、腕の動き、特に右腕の二の腕の通り道をきちんと作る事ができるようになる。
この違いがスイングに影響しないはずがない。
直線上を生きる者は、直線上であれ、曲線上であれ、その次元内のすべてが直線として観察されるはずだ。そのため角度という概念を得ることは難しい。
しかし、一次元上で光を出せば、直線なら到達するが、曲線上ではなぜか光が届かない現象が観察されるはずである。それをどう解釈するかに苦労するであろう(光は縦波なので一次元には存在できないというのはここでは無視する)。
一次元の世界と二次元世界が交差しても一次元の者は何かが変化しているとしか認識できないはずである。三次元世界と交差した場合は、一次元の世界に、複数個所に同時に出現する変化として観測されるだろう。だがその同時出現性をどう考えるかはよく分からない。
二次元の世界に住む者は、三次元とどう考える事ができるだろうか。目の前で三次元世界が交差した場合、それはちょうど、MRIの画像のように次々と画像が切り替わってゆくように見える。
その画像が彼らの知らない方向(Z軸)に対して連続している事を発見すれば、彼らは三次元空間の入り口に立てる。だが、三次元を想像する事はできるだろうか。
一次元の者が角度を考える事は難しいように思われる。しかし、曲線があるならば、それを一次元の考えで理解する事ができる。曲線の存在は認知可能であって、それがより高次元との接点と考える事はできる。
二次元の者は角度を知っているので、もうひとつ別の角度があると考える事はそう難しくないように思われる。その角度が二次元X,Yではない方向、Zという方向を知る事はできないが、仮定する事はできるだろう。彼らは立体を組み立てる事は出来ないが、展開図を作る事は出来る。
それを組み立てたものがどういう形になるかを描く事はできるか、できないか。遠近法を二次元世界で見つける事はできるか、しかし、絵画で表現するものは二次元世界では生み出せそうである。
この話を先に進めれば、三次元空間に住む我々の世界に四次元空間が交差したらそれを観測する事は可能なはずだ。だが、それが四次元との交差であると気付く事ができるかは疑問である。四次元空間のみで観測される現象が何であるかを知らないからである。
更に上位次元の例えば五次元人から四次元空間について教えてもらった所で、どこまで理解できるものか。ただ何かがある事は認識できそうである。それを変数 x としてこの世界の中に持ち込むことは可能と思われる。それは一次元の数学でも同様ではないかと思うわけである。
というわけで、我々の体は三次元構造で出来ているが、これを無意識のうちに二次元として扱っていたとしても自然である。それが右の肩甲骨が体の中心へ引き寄せられる原因であると気付いた。
この左右のアンバランスさがコリの原因となるのは、体の中心がずれるためであって、昔から右を向くのはスムーズなのに左を向くのにはぎごちないのも同じ理由である。全体を制御するためにある部分を固定化する。
ある場所に支点を作れば、そこは動かなくなる。右の肩甲骨を中心によせて固定化すれば最初から右向きになる。そのため、右にはスムーズには動くが左には向きにくくなる。
二次元の面で全体を理解しようとすればそういう答えに辿り着くのも仕方がない。なぜ人間の体には肋骨が三次元空間を持つように存在するのか。胸骨が頑強に空洞を形成するのは、単に肺を守るためだけではない。
肋骨には上半身を制御する役割がある。腕も肩も頭も、謂わば肋骨の付属物である。その付属物にも重要な機能がある。もちろん、肺が潰れても心臓が潰れても頭が潰れても人は死ぬのであるから、重要度にそう大きな違いはない。
ただ、人間にとって大脳と手が(意識にとっては)重要すぎる、というだけの話である。
病は気からというが、全ての病気が気から起きるという意味ではない。うつ病でさえ脳の炎症であると言われる。だが、体の使い方に関して言えば、複雑すぎて何か一か所だけを意識してもうまく動かせるものではない。しかし、肋骨全体を意識して上半身を動かそうとすれば状況がかなり改善される。
これは意識というよりも無意識が、どこか一か所というよりも、全面的に、意識の刷新として起きるように感じる。
肋骨上に乗せた重心が安定すれば、クラブヘッドの動きをより意識した軌道や、腕の動き、特に右腕の二の腕の通り道をきちんと作る事ができるようになる。
この違いがスイングに影響しないはずがない。
2018年9月10日月曜日
練習場より 2018.09.10号 - 凝り固まった筋肉
血流が悪いと言われる。だが血流が止まれば筋肉は壊死するし、病臥にあれば床ずれもできる。筋肉が健全に働いている以上、血流に問題があるとは思えない。
一方で筋肉が凝り固まった状態になるのは事実であるし、マッサージすることで一時的とはいえ解消されるものである。そのような状態を血流が滞っていると比喩するのもそう間違った話ではない。
筋肉が凝り固まる状態には二つが考えられる。ひとつは常に緊張状態を強いられて、弛緩できない状況である。これは緊張状態になっている原因を取り除けばよい。筋肉は随意筋、非随意筋とあるが、いずれも脳からの指令によって緊張状態を生み出す。例えば、強い刺激が脳の発信を一時的に停止したりするのも理解できる。足つぼなどは痛い事で別の場所を緩ます。
それとは別の状況があるのではないか、これが新しい発見である。
筋肉が凝り固まるもうひとつの原因は、主に骨や他の筋肉によって塞がれて、動きたくても動けない状態になっているということだ。常に周囲から圧迫を受けた状態にある。この状況は、凝っている部分だけでは解消できない。その周囲に圧力を掛けている部位があって、この圧力を取り除く必要がある。その原因は主に物理的な配置にあると思われるので、方向、位置や距離を変えることで改善が期待できる。
サウナの後に水風呂に長く使っていると、コリのある部分が特別に感じられるようになる。これは冷たさに対する対抗力の違いだと思うのだが、その位置に対するケアを意識することで楽になる場合がある。
ケアは主に姿勢を変える事で行う。ゆっくりと方向を変える。空間を開けるようにする。距離を変えるようにする。空間が狭いから圧縮される。空間を大きくするように動く。
一般的に、原因には始発点がある。ほんの小さな力でも掛かり続けるとそれに対処せねばならず、様々な筋肉が圧迫を受ける。この連鎖が拡大して広がれば、遂には背中全体が凝り固まる状況を生む。
自分の場合は、それが鎖骨の胸骨関節面にあるようだ。ここに上からの圧迫が続いていたように思われる。上からとはつまり頭である。頭が前方向に出ていると、それを支えるために首も前のめりになる。その重さを鎖骨で下から支えることになる。
これが続けば鎖骨は常に上からの圧力によって身動きできない。鎖骨が動かなくなれば、その影響が首、肩を通して背中全体にまで波及するようだ。
この圧力を取り除くことが筋肉を弛緩させる。
と、同時に歩き方がスムーズになったように感じる。足が前に出やすくなった。もしかしたら、膝のケガと鎖骨への圧迫には因果関係があるかも知れない。
いずれにしろ、姿勢の変化がゴルフに影響しないはずがない。
一方で筋肉が凝り固まった状態になるのは事実であるし、マッサージすることで一時的とはいえ解消されるものである。そのような状態を血流が滞っていると比喩するのもそう間違った話ではない。
筋肉が凝り固まる状態には二つが考えられる。ひとつは常に緊張状態を強いられて、弛緩できない状況である。これは緊張状態になっている原因を取り除けばよい。筋肉は随意筋、非随意筋とあるが、いずれも脳からの指令によって緊張状態を生み出す。例えば、強い刺激が脳の発信を一時的に停止したりするのも理解できる。足つぼなどは痛い事で別の場所を緩ます。
それとは別の状況があるのではないか、これが新しい発見である。
筋肉が凝り固まるもうひとつの原因は、主に骨や他の筋肉によって塞がれて、動きたくても動けない状態になっているということだ。常に周囲から圧迫を受けた状態にある。この状況は、凝っている部分だけでは解消できない。その周囲に圧力を掛けている部位があって、この圧力を取り除く必要がある。その原因は主に物理的な配置にあると思われるので、方向、位置や距離を変えることで改善が期待できる。
サウナの後に水風呂に長く使っていると、コリのある部分が特別に感じられるようになる。これは冷たさに対する対抗力の違いだと思うのだが、その位置に対するケアを意識することで楽になる場合がある。
ケアは主に姿勢を変える事で行う。ゆっくりと方向を変える。空間を開けるようにする。距離を変えるようにする。空間が狭いから圧縮される。空間を大きくするように動く。
一般的に、原因には始発点がある。ほんの小さな力でも掛かり続けるとそれに対処せねばならず、様々な筋肉が圧迫を受ける。この連鎖が拡大して広がれば、遂には背中全体が凝り固まる状況を生む。
自分の場合は、それが鎖骨の胸骨関節面にあるようだ。ここに上からの圧迫が続いていたように思われる。上からとはつまり頭である。頭が前方向に出ていると、それを支えるために首も前のめりになる。その重さを鎖骨で下から支えることになる。
これが続けば鎖骨は常に上からの圧力によって身動きできない。鎖骨が動かなくなれば、その影響が首、肩を通して背中全体にまで波及するようだ。
この圧力を取り除くことが筋肉を弛緩させる。
と、同時に歩き方がスムーズになったように感じる。足が前に出やすくなった。もしかしたら、膝のケガと鎖骨への圧迫には因果関係があるかも知れない。
いずれにしろ、姿勢の変化がゴルフに影響しないはずがない。
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