2016年5月29日日曜日

練習場より 2016.05.29号 - 1,2,3パターン

ひとつが構築されたら、それが自然と次の何かを誘導する。それが発動し次の誘導を生み出す。その自動的な連続がひとつの模様なり形なり運動を生み出すことはチューリングパターンが教えてくれる。

それはスイングも同様だ。ひとつの動きが次の動きを誘導する。誘導の連鎖がひとつのスイングを作り出す。しかしカオスが教えるように初期値のわずかな違いが全く違う運動を描くように、ゴルフスイングもわずかな違いがどのような結果を生み出すか予測できない。

だからといって、振ってみるたびにてんでバラバラでもあるのも許容し難いわけである。カオスが発生するなら、その条件を検討すべきであるが、少なくとも人間の体は骨格と筋肉によって、カオスの発生は恐らく強く抑制されているように思えるのである。

一方でどれだけ複雑に見えるものでも対称性などに着目すればただ同じ所をくるくる回っているだけの運動かも知れない。ただの螺旋運動かも知れない。

人間の体は投げられたボールの軌跡よりは複雑であろう。200 を超える骨、大量の筋線維が生み出す運動。さらに精神の介入がそこには含まれる。ひとつとして同じスイングはない。ミリ単位で見れば、必ずどこかが違っている。これを cm まで拡張すれば殆ど同じスイングは再現可能と思える。もちろん cm も違えば、結果は m 単位で違ってくるのである。

前駆運動の誘導に必ず従えばよいわけではない。目的を持った運動はどこかで方向転換しなければならない。それをどこで行うかが重要とも言える。従うか、抗うかは When, Where に依存する。

右脇腹がスイングと共に動くとき、それは体を大きく揺らすわけではない。少し収縮する程度である。雰囲気としては、下半身と上半身がひねりの入った少しだけくの字のように感じられればよい。

そしてその後で腹筋が大きく動くタイミングがある。この腹筋で前を向いている体が、ボールの飛翔方向に向きを変える。

  1. トップ位置からの始動
  2. 右わき腹の初動
  3. 腹筋のターン

これらの連動が必要である。あまり意識しすぎると過剰反応となり、体が回りすぎたり、揺れが大きくなって、力がロストしたり、方向性が失われるだろう。

体の動きは発生と結果を繰り返す。ある時点での動きが、ひとつ前の結果であり、次に移るための始動でもある。終わりと始まりを常に兼ねている。

これのどちらか片方だけに注目するのは片手落ちであろう。その形の出来不出来が次に強く影響する。どの部分も、目標でありかつ始点である。スイングの各部分は常に動きの答案(ひとつ前の動きが上手く行ったか)でもあり、出題される問題(次のどのような動きであるべきか)でもある。

我々は自由意志でスイングしていると信じている。しかしもしかするとトキソプラズマに寄生されている可能性も捨てきれないのである。その上手くいったゴルフスイングは自分のせいか、それとも何かに寄生されているせいか。無意識で何かが起きているかを知り尽くすのは困難である。

2016年5月22日日曜日

練習場より 2016.05.22号 - 五輪の書、風之巻 第8 右脇腹の事

複雑な運動をコツとして捉える時は結構単純な所に視点がフォーカスされたりして、それさえ叶えれば上手くいくという風に理解することが多い。さて、コツとはなんだろうかと考えると、それはタイミングではないかと思ったりもする。

色々な試行錯誤の末に辿り着いた、自然なスイングが出来たと思う時、はて、これをどう表現すれば良いのだろうか、これ以上の分析はもう不可能な気がする、という場所に辿りついたりするものである。

それをもう一度、少しずつ分解してみて(運動を微分してみて)、それは一体どういう運動の組み合わせなんだろうか追及してみる。もちろんそれが完全な解明とはならない。完全など不可能だと思うのだけれど、それでも、このこれとあれをきれいに連動すればうまくいくという感覚が見つかるものである。

当然だが、その他の部分が前提条件である。それらが想定通りの連動してくれていなければ成立しない。例えば、和建築の土台に西洋建築を建てようとするのは無謀であろう。建てたければ意識化しておかなければならない。それはギリシア建築であろうと、近代建築であろうと同様だろう。

前提条件とは意識されていないものも含めて土台である。古典芸能を鑑賞する時、基本的な知識が要求されるのと似ている。昔はそれを教養と呼んだ。現代のように知識の流動性が激しい時代には、古典芸能に求められる知識のプライオリティは低い。それがハードルの高さとなる。囲碁というゲームも同様であろう。時間をかけて身に付ける時間が今や乏しい。

この前提条件を全て記述(意識化)するのはまず不可能であろう。だからコツというものは、全ての人に対して、すべての状況に於いて有効とは言えない。となると、各人が積み重ねてきた歴史が入りやすさに対してとても重要な意味を持ってくる。

五輪の書、風之巻 第8
一 他流にはやき事を用る事。
兵法のはやきと云う所、実の道にあらず。
はやきといふ事ハ、
物毎のひやうしの間にあはざるによつて、
はやき遅きと云こゝろ也。
其道上手になりてハ、
はやく見ヘざるもの也。
たとへバ、人にはや道と云て、
一日に四十五十里行者も有。
是も、朝より晩迄、はやくはしるにてハなし。
道のふかんなるものハ、
一日走様なれども、はかゆかざるもの也。
乱舞の道に、上手(の*)うたふ謡に、
下手のつけてうたへバ、おくるゝこゝろ有て、
いそがしきもの也。
又、鼓太鼓に老松をうつに、静なる位なれども、
下手ハ、これもおくれ、さきだつこゝろ也。
高砂ハ、きうなる位なれども、
はやきといふ事、悪し。
はやきハこける、と云て、間にあはず。
勿論、おそきも悪し。
これ、上手のする事ハ、緩々と見ヘて、
間のぬけざる所也。
諸事しつけたるものゝする事ハ、
いそがしくみヘざるもの也。
此たとへをもつて、道の利をしるべし。(1)
殊に兵法の道におゐて、はやきと云事悪し。
是も、其子細は、所によりて、
沼ふけなどにてハ、身足ともにはやく行がたし。
太刀ハ、いよ/\はやくきる事悪し。
はやくきらんとすれバ、扇小刀の様にハあらで、
ちやくときれバ、少もきれざるもの也。
能々分別すべし。
大分の兵法にしても、はやく急ぐ心わるし。
枕を押ゆると云心にてハ、
すこしもおそき事ハなき事也。
又、人のむざとはやき事などにハ、
そむくと云て、静になり、
人につかざる所、肝要也。
此こゝろ、工夫鍛錬有べき事也。


ゴルフでスイング速度を貴ぶのは、勘違いである。
速さとは物毎の一瞬のタイミングという刹那にあって、早い遅いとはこのタイミングの事である。
メジャーを取るような人のスイングは早いようには見えないものである。

例えば、ウッズという人がいるが、彼の飛距離は290も300ヤードも飛ぶ。
だが彼も朝から晩までひたすら早く振っているわけではない。
ここが分かっていないと、トップからフィニッシュまでひたすら早く振りまわせばいいと思うが、それでは上手く行かないのである。

カラオケで、上手な人の歌と一緒に歌うと、未熟な人は歌に合わせようとするから、遅れまいとして忙しく感じるのである。
また、バラードは静かに感じるけれど、未熟であると、これも遅れまいとして、先に先に行こうとする。

ロックは、急な歌だけれども、早いというのは悪いこととされている。
「早きはこける」と言われているとおり、逆に拍子に間に合わないのである。
勿論、遅いのもダメである。

これ、上手な人は、ゆっくりとしているように見えて、タイミングはドンピシャである。
どんな事でも上手な人のする事は、忙しいようには見えない。

この例えを以って、早さについてよく考えなければいけない。

殊にゴルフの道においては、振り急ぐは悪し。

これが様々な場所場所に顔を出してくる。

遠くに飛ばそうとすれば、身足ともに早く行こうとする。
ドライバーを、いよいよ早く振ろうとする。
早く振ろうとすれば、ウェッジ、パターの様にはいかず、ちゃくと振れば、少しも飛ばないものである。
ここのところ、能々分別すべし。

ゴルフにおいて、早く急ぐ心は良くない。「枕を押す」と呼ばれる心とは、後の先みたいなもので、それからでも少しも遅くはないのである。ただ、これはゴルフには関係ない。どちらかと言えば敵ではなく自分の枕を押すべきであろう。

同じ組の人がぶん回して上手く行った時などは、「背く」という教えの通り、それを超えようなどとは思わず、静かにして、相手に合わせないようにすることが肝要である。
この心は工夫鍛錬できるものである。


さて今のところの総決算である。次の要素に重要と思ったので記述しておく。

  • 上半身の前傾姿勢は崩さない
  • スイングの時は右脇腹が動く

スイングと右脇腹のどちらが先に動くかは分からない。少なくともこのふたつは連動して動くようである、それを見つけたと思う。

右脇腹は、上半身の回転ではない。しかし、その場所に留まっているというものでもない。トップを作るときに必要だった場所から退避する感じである。

それが自然と上半身の動きをスムーズにするように感じられる。それは回転ではなく、ロックを外すという感じである。左側に回転しようとしているなら、右脇腹の動きは間違えている。少なくとも、体の左半分は回転しようとしてはいない。

兎に角、これまでで一番良い感じが出来た。ようやくスタートラインに立てたと思う。

2016年5月4日水曜日

練習場より 2016.05.04号 - 肩関節の可動域と脇を絞めろ

鋼鉄ジーグやガンダム、エヴァンゲリオンを見てきたせいで、肩の関節は自由自在に万能に動くという思い込みがある。

確かに肩の可動域は高い。上から下まで腕は回せるし、前から横へも自由自在である。

肩関節は、股関節と共に可動域の広い関節である。それは肘と比べれば明らかだろう。肘や手首が一方向にしか曲がらないのに対して、肩の可動方向はずっと多い。

手の位置は次の組み合わせで決められる。
  1. 肩の可動域(肘の高さ)
  2. 肩の可動域(肘の前後)
  3. 肘の角度
  4. 手首の角度

僕たちは自由に手を移動できるから、肩の関節も肘の関節も自由にどの角度でも動けると思い込んでいるようだ。

ゴルフのトップでは肩の関節も上方向に移動する。だが肩の関節は自由自在の軌道を取れるわけではない。上にある関節を下に移動する時、取れる軌道は、数個しかないのではないか、と思われる。

そうすると、トップからスイングへと転調する時、肩がどの軌道を通り道とするかは意識しなければならないはずだ。

どのような軌道を通っても同様の速度で移動できるというのは勝手読みというものだろう。軌道が違えばスイング速度も変わるはずだ。これは肩の筋肉の付き方が大きく影響するに違いない、という話である。

筋肉につき方は動きに対して負荷となる。最大となる軌道と最小となる軌道があるはずだ。

更には、肩関節をどこまで上に上げるのが適切であろうか。肩関節はできるだけ下にしておく方が望ましいと思う。

少なくとも肩より上に上腕骨を上げるべきではない。角度にすれば40度よりも下。

これはスポーツでは脇を絞めろという話でもある。

脇を絞めるというのはあくまで結果の状態である。それをするために筋肉を動員すべきではない。脇を閉めろの正しくは、肩の関節を上に上げなければ、脇は締まった状態になる、ではないか。

肩の関節の位置を上と下で分類する。更に細かい分類も可能であろうが、まずはそれくらいに大きく分類しておけばいいだろう。

そのうえで、どの程度まで上に上げても良いかは運動にとってとても重要であると思うし、動く時に通る軌跡はひとつに決まるだろう、くらいに思っておく方が吉と思われる。

2016年5月1日日曜日

練習場より 2016.05.01号 - 纏わりつく腕

理想がたとえ幻想に過ぎないとしても昨日のスイングは理想と呼べるものだった。

それでも開眼したなどと言う気はない。仏教徒はゴルフをした事がないから、簡単に悟っただの開眼しただの言うのである。昨日まで分かっていなかった事を今日は知る事ができた。しかし明日になれば、また分からなくなっているものである。スイングとはそういうものだ。

今日悟ったから明日も悟れているなどと思ってはならない。悟りは蓋を破るようなもので一度破ったら二度と元に戻れないものなのか。それとも、ドアを開け部屋から出てもまたドアが閉まるようなものか。

それでも、これと思ったものを記録に残し参考にしてまた組み上げて行くのは決して無駄とは思わない。ダンテだって地獄の見聞を記録にしたから今日まで残っているわけである。

さて、スイングを今はふたつに集約している。
  1. スタンスの時は前傾姿勢を最後まで維持する
  2. スイングには角運動量保存の法則が働く

前傾姿勢を維持するとは、腕の通る空間を空けるのと同じである。まっすぐ立てば腕を横には振れない(体が邪魔をする)から、体を邪魔にならないように前傾姿勢を維持する。この時、スイングの間に体が伸び上がるのはよくないようである。最後まで前傾は崩さない。

角運動量とは、フィギュアスケートのスピンである。腕を前に伸ばせば回転は遅く、畳めば速くなる。ゴルフスイングも同様であって、クラブは回転運動をしているから、この法則のように動くのである。

人間の運動は単純な回転ではない。幾つもある回転軸が複合的に組み合わさって、スイングを形作る。話は極めて複雑である。だが複雑なのは物理学ではなく、206本もの骨で構成された人間の体の方である。

それでも角運動が教えることとして、回転を早くしたければ回転の半径は小さくするべきなのである。インパクトに近づくほど半径は小さくなるべきなのである。回転の半径が小さくなれば回転速度は大きくなるからである。

だがこの近づくという概念がまた難しい。と言うのも、近づくってどこへ、という話が恐らく個々人で違うのである。その位置をようやく見つけたとしても、次の日は別の場所に変わっているかも知れない。体調や疲労によって場所が移動する可能性は高い。固定していないのなら、一度の悟りで済むはずもないのである。

雰囲気としてトップから体の側面を纏わりつくように腕が下りる。インパクトの瞬間にはアフリカオオコノハズクのように腕が腰の位置辺りで細くなるイメージ。

ドライバーなどの長いクラブは、この感覚に更にべつのものが加わる。それは一直線の後に、クラブと体が一緒に動く感じである。前傾姿勢を崩さないが動いてはいけない訳ではない。クラブが要求する力や速度に応じて、前傾のまま左右に移動するのは構わない。

クラブの軌跡はいざ知らず、腕の軌跡は回転ではないと思う。後ろから一直線に通り抜けて行くという感じがする。

これはただ一日の理想である。明日には祇園精舎の鐘の音。諸行無常の響きあり、として朽ちるのである。