2017年2月26日日曜日

練習場より 2017.02.26号 - 肩甲骨の下

人間の体は昆虫ではないから、頭、胸、腹の3つに分割できる様には出来ていない。だからといって、別けて考えるのは人間の、言語を獲得した生命の宿命だから、腹、肩、頭と考えるのは致し方ない。その構造はアニメーションにおけるロボットのデザインを見れば自然と分かろうものである。

だから肩を動かすとは、体の横にある関節を動かす事だと思ってしまう。肩といえば、首から肩にかけてのラインの事だと思い込んでいる。人間においては自分の体でさえ意識から吹っ飛んでいる部分が沢山ある。そういう所は意識的には当然使われないのであるが、下手をすると無意識化でも使われていないのではないか、という話である。

肩を動かすのに、自分が肩だと思う場所の筋肉だけを使おうとする。これは主として回旋筋腱板の事である。これは肩甲骨の上側を主に支える筋肉であるが、これと僧帽筋を主に使っているようである。

しかし、肩を動かすのをそれだけに頼るのは間違いである。もちろん、無意識においてもっと多くの筋肉が動員されている。愚かな首長にはその下で働く人々のことが想像できないようなものである。

肩を動かす時には、肩甲骨で動かすのが大切なようである。そして肩甲骨を動かすには、下から上に押し上げるように使うもののようだ。

肩と背中の間に、肩甲骨のラインがあると捉える。肩でも背中でもない区分がある。この部分を使って肩を動かす。今までの感覚よりも10cmくらい下を意識する。

肩を動かすには、肩甲骨の下側のラインを中心にするようである。この違いがスイングに影響するのは了然かと思われる。

左肩がよく動くようになると次に重心の位置が気になり始める。どこに重心があるのが最も違和感がないか。それを突き進めてゆくと、次第に「仕事をするのはクラブである」という現前たる事実を体感できるようになる(認識は誰でもできる)。

スポーツが物理学を超えられない以上、クラブが仕事をするのは当然の帰結である。するとスイングとはそれを支えるためだけにある。力んだ所で物理学的に効果がないのなら意味はない。クラブがどうスムーズに動くかを考える。それがもっとも良い仕事をするだろうと考えるからである。ゴルフは、間接的にしかボールを扱えないスポーツなのだ。

軍の最高司令官が一歩下がった所から色々と指示を出すように、クラブに対して間接的にしか働きかけられない。電磁気学的に言えば、ボールが飛ぶまでにどれだけのゲージ粒子が作用しているかという話である。人間の筋肉はそれらの運動からは極めて遠い所にある。

人間がボールを扱う時、それが将来どこに移動するかという予測は欠かせない。予測なしで臨機応変に反射だけで反応するのは困難である。その限界は直ぐに来る。

これは、嵌め手を使われて、何も知らない者が、いとも簡単にやられてしまうのと似ている。強いから間違わないのではない。知っているから間違わないのである。故に強いものは多く知っている者である。

それが本当の強さかと言うと微妙であって、互いに知らない時に強い事と、知っているから強い事の差は大きい。強さも、分析してゆけば様々なパターンが見出せる。まるで素粒子の振る舞いが、古典的な物理学では記述できないのと似ている。だが最終的に戦争が総合力の戦いであるのと同様に、勝負事も勝ったものが強いのである。それは総合力に帰結するはずである。

この世界は3次元のベクトルと時間に置き換えて語る事ができる。しかし、ベクトルは方向と距離であり、距離(距離=時間×速度)は、時間によって(時間=距離/速度)置き換え可能であるから、時空は4つの方向と時間で表記可能なはずである。しかし、最後の時間だけは、方向が想像できない。天動説で一番外側に何も見えないが時間という天体が移動していると考えた古代人のセンスには感動する。

空間の中に時間を加える事とはどういう事だろうか。空間は時間方向に移動しているはずだ。3次元という船が時間という海を航海しているようなイメージだ。船の中の時間は、海の時間とは別の進み方をする。というような話だろうか。

だからどうしたと言う話だが、もちろんゴルフとはあまり関係ない。つまり少しはある。

2017年2月19日日曜日

練習場より 2017.02.19号

最初に言っておく事として、人は思ったよりも自分の体を上手には使えていない、というのがある。自然が生み出した機構は基礎設計が良過ぎるので、許容範囲が極めて広いのである。それ以外は許さないというのがとても少ない。

A がダメなら B、B でダメなら C。ドワンゴが見せた身体障碍者の歩行と同じであって、少々ダメになっても何とかできるように作られているのである。その可能性が生存に役立つというのが進化における基本戦略であろう。

だから、なぜ人間の体にはこれだけも多くの関節(200)と筋肉(600)が付いているのか、と問えば、様々な働きを可能とするためだけではとても足りなくて、ロバストネスの向上を獲得するためという理由が必要である。

ひとつふたつ壊れたくらいで機能しなくなるようではこの世界を生き抜くことなど出来なかったのであろう。

ゴルフスイングも同じである。誰もが自分のスイングを持っているが、それを許容するだけの構造が人間の基本設計にはあるから可能なのである。

自分の欠点が漸く分かり始めた。左肩である。左肩を後ろに下げる動作が上手くいってない事が緩徐にだが分かってきた。それがスイングの全体に影響する。

左肩をフィニッシュ方向に向ける動作が緩慢だから、スイングの軌道を邪魔する。行き所のない力はなんとか、別の経路を通ろうとする。堤に当たった川が流れを変えるように。もっと早く動かそうとしても、逃がす力が増加するだけの話である。

力が増えた分、それを受け止めるために他の場所も動員する必要がある。堤防を巨大にするのと同じだ。その限界はすぐにバランスの崩れとして意識されるだろう。なんとかそれを修正しようとするが、問題が解決したわけではないから、バランスが崩れる場所を別の場所に移しただけで解決した気になる。

本質が変わらなければ、迂回するか回避するしかない。輪廻とはそういうものだろう。永劫に続くならば行き詰まるのは目に見えている。たくさんの問題をいっぺんに解決できる方法がより正しい解決法に違いない。

左肩を下げるのが下手である、と気づいて思い出した事がある。そう謂えば、バイクでも左ターンが苦手であった。スノーボードも左右で曲がりやすさが違っていた。何故か。

肩がいつまでも前に残っているので体の向きが変えにくいわけだ。だから十分に重心の移動もできないし、スムーズさにも欠ける。次の動作に移るのも遅延する。遅延すれば無理に急ぎ、バランスはそのうち崩れる。

これはゴルフスイングも同様に起きるであろう?

肩を後ろに回すというのは腕を後ろに回す所作であるが、その方法は幾つもあって唯ひとつではない。だからこれまでも不便とも思わず出来ていたのである。自分なりの方法で。

それを改善しようという話である。きちんとした(本質的にそんなものはないのだが)使い方を模索するのも悪くない。

広背筋を使えば肘が下を通って後ろで上がるように動く。回旋筋腱板だけを使うから前とら後を直線的に移動する。違うのは肘の軌道である。

前から後ろに直線的に移動すれば肘は脇を開けたまま動く。脇を閉じて後ろに動かせば肘は下から上へと向かうように動くはずである。ゴルフではこちらのほうがいい。これは回転域の広さがもたらす違いであろう。

だから、腕を後ろに回すには、腕を斜めの軌道で動かすのが良いと思った。

どの動かし方が正しいかではなく、どちらがより多くの問題を解決するか、という話である。肩の引き方を見直すだけで色々な点が変わりそうである。スムーズさがフォームの全体に影響しているのが分かる。

肘を引くように動かしていたのも、左肩がいつまでの居座るから窮余の策として起きていた現象なのだ。これを何回繰り返しても改善することはない。肩が引けないのを肩を回すだけで対処しても他のどこかに負担がかかる。それがまた別の問題を生み、また別の改善策を探そうとする。

ずうっと解決策にはならない解決が堂々巡りしている。探しても答えが見つからない。見つかったと思ったらそれは違っていた。まるで青い鳥のようである。問題は輪廻転生している。だから釈迦は解脱を示したのだろうし、僕は肩の引き方を変えたのである。

果たしてこれが青い鳥であろうか。