ある時に気付いたのだが、トップの位置からまっすぐに落ちるという感じが相応しいようだ。腕だけがカクッと折れると感じか。ヘッドが落ちたクラブは、落ちてからボールにヒットするように動く。
クラブはまず右足よりも右側できちんと下に落ちる。次に、落ちてから左に移動する。大雑把に言えば、この2段階に分解できる。
だから、重力によってどこにクラブヘッドが落ちるかはとても重要である。
これはスイングプレーンは円であると意識していては理解し難い考えだろう。
回転運動を円として理解するのは、コペルニクスの説にも認められる自然な考えである。アリスタルコスが唱えてから2000年近くもこれを支持する根拠が見いだせなかった。ブルーノは神という考えからこの説を支持したが処刑されてしまった。
この思い込みから抜け出すには、ティコの膨大かつ正確な観測記録と、ヨハネスのおそらく何年にも渡る試行錯誤の計算が必要であった。彼が見い出したのは楕円軌道であった。
ケプラーの3つの運動式から、アイザックはそれを満たすただひとつの式を導く。それは長く人々に使われてきたが、観測精度の高まりが、次の新しい式を欲した。すなわちアルベルトの登場である。
そのせいかどうかは知らないが、人間は野球のスイングだろうが、テニスラケットの動きであろうが、ゴルフスイングであろうが、円運動として認識する。
常識的に考えれば、人間の体には回転に使える中心軸はない。モーターとは機構が違うのである。それどころか楕円軌道であるための二つの焦点さえないのである。
しかし物理学の効率を追及する限り運動は円/楕円軌道が望ましいはずである。とすればゴルフスイングは複数の回転運動の合成と考えるのが妥当であろう。
背骨で支えられた骨格の人間が回転運動をする時、それはとても複雑な動きをなす。機械ならば簡単にできる回転運動が人間の構造では出来ないのである。
であるから、スイングは幾つかの運動に分解して理解するべきである。この幾つかとは、運動の部分部分で中心となっている場所が移り変わっていると考えるべきだし、また、幾つもの筋肉が時間差を持ちながらこの運動に参加していると考えるべきだろう。
まず下に落下したゴルフクラブ(phase 1)は、そこから横の動き(phase 2)に移動する。イメージは「俺は直角」の直角切りである。
バックスイングからトップ位置にあるクラブは、ダウンスイングで最初は自由落下で下に落とす。このとき、ボールに向かう力を与えるのは正しくないように思える。重力の位置エネルギーで自然と落とした後に、フィジカルの力が与えられるべきだろう。もちろん、この間は0.5秒もないはずである。
下に落ち切ったクラブに対して、強く横に払う運動が加わるとき、それは振り子のような動きではない。それは最初の動き出しだけで十分なはずである。
クラブが下に落ちるまでは最初の動き出しがスムーズになればよく、その点では、自由落下によって、無重力状態に(近い状態に)あるクラブに対して、横向きの力を与えて本格的な加速が始まると言ってよいだろう。
エアーホッケーと同じで無重力状態ならば、与えた力によってスムーズに移動できるわけである。油の敷いた路面で車がよく滑るように、落下によって重量が(見かけ上)減ったクラブならば力を与えやすいわけである。
クラブに力を掛けるには、腕の軌道がとても重要で、そこで重要なのはどれだけ力を入れられるかではない。どれだけスムーズにできるか。重要なのはパワーロスをしないことである。
コースでは体も脳も疲労する。脳が疲労すれば、判断力は鈍る。鈍くても正しく判断できるならばまだよい。普通は間違った判断が連発しだす。ゴルフもまたヒューマンエラーの連続なのだる。
これに対処するには、脳の疲労と鍛えるしかなく、同時に適切な休憩と栄養補給が必要なはずだ。
いずれにしろ、簡単に8だの11打のを叩くようでは話にならない。慙愧。
2016年10月15日土曜日
2016年10月9日日曜日
練習場より 2016.10.09号 - パター開眼
パターの所作においても、クラブは、右足より右側の位置で既に下りていなければならない。
これは他のクラブも同じであって、下っている状態とは、簡単に言えば、クラブのシャフトがどこを向いているかと言う話である。
グリップの端は、トップでは、延長線が地面と交差する。これがスイングの回転で、空と交差する。
これがどこで完了していなければならないかという位置の問題として、クラブヘッドが右足よりも右側で完了していなければならないようだ。
これは他のクラブも同じであって、下っている状態とは、簡単に言えば、クラブのシャフトがどこを向いているかと言う話である。
グリップの端は、トップでは、延長線が地面と交差する。これがスイングの回転で、空と交差する。
これがどこで完了していなければならないかという位置の問題として、クラブヘッドが右足よりも右側で完了していなければならないようだ。
2016年10月3日月曜日
GOLF 2016/10/03 - 現在を未来の過去として生きる
人は未来に向かって生きる。しかし、現実に生きていられる時間は、今という瞬間しかない。だから、いつも人は、一度未来を生きてみて、今という過去に戻ってくる。その来るべき未来に味わった後悔から逃れるために、今に立ち戻り、今をもう一度生きてみる。
ゴルフもまた同じ。スイングをする前に、未来を思い描く。そこには様々な可能性の未来がある。全てが上手くゆく未来。べたっとピンに寄せている自分。距離が足りずにバンカーに入ってしまう自分。大きく曲がり林の中に吸い込まれゆく自分。
様々な成功も失敗も経験した上で、こうはなりたくない、だけれどもトライしてみなければ結果は分からない。それを知った上で、自分はこうチョイスする。そのたった一度のスイングは未来の後悔から振り向いた過去として行われているのである。
後悔したくなければ、それは結果にではなく、今の自分に出来る事にフォーカスするしかなく、それは我を無くしてスイングするという事でもある。
腕の角度も、腰の持ち方も、それぞれはスイングの結果とは何も関係しない。ただ、このスイングを良きものにしたいという考えだけで決定する。最高の結果を求めるし、それは過程によって決定すると知ってはいても、その選択がどのような結果をもたらすかは打ってみなければ分からない。もちろんあらゆる限りの知識を動員して、方向を決め、距離を決め、クラブとスイング径を決める。
だが、それは結果ではない。私たちに残されているのは、考えられる限り理想的なスイングをする事だけである。
クラブがどのように向きを変えるか、それがどの場所で起きれば、パワーロスの少ない最もスムーズなスイングになるか。大切な事は、右足よりもずっと右の場所でそれは行われなければならないという事だ。パターでさえ、右足よりももっと右側でダウンに入っている。
という心構えをしてもコースでは失敗の連続である。その度に、どう微調整すればいいかを考える。その上で、それは今すべきことかと考える。少しずつ改善されてゆくのは練習場も同じである。
同じシチュエーションは二度と来ない。コースでなら確かにそうである。だが練習場はどうか。同じように見える。しかし、それは微視性の問題に過ぎない。それを小さく取れば取る程、練習場でも同じシチュエーションなど二度と起きないのである。あると言うためには違いを無視できるほど微視性を大きくするしかない。
いずれにせよ、我々は常に現在という過去を生きている。意識は先に進んだり、ずっと後ろに戻ったりしながら、あちこちを覗いている。だから、今を生きるとは、未来からみた過去の再現であったり、過去から見た未来の成就だったりする。今だけで今が出来ているのではない。過去のない今などありえない。未来のない今など無意味だ。
もちろん、未来と過去と現在を繋ぐのは単なる脳の働きに過ぎない事は分かっている。脳はそうやって記憶の中から自己の一体性を把握する。その正当性は時間の中に連続性があるという事である。経験は蓄積される。その蓄積された順序が時間の正体である。
もちろん、物理学のいう時間とは量子の振動だったりエネルギーの揺らぎだったり光子の移動距離だったりする。孰れにしろそれはゴルフとはあまり関係ない。
過去から繋がっている未来を覗いてみる。そして、今を未来からの過去として生きてみる。
そういうスイングもあるという話。
ゴルフもまた同じ。スイングをする前に、未来を思い描く。そこには様々な可能性の未来がある。全てが上手くゆく未来。べたっとピンに寄せている自分。距離が足りずにバンカーに入ってしまう自分。大きく曲がり林の中に吸い込まれゆく自分。
様々な成功も失敗も経験した上で、こうはなりたくない、だけれどもトライしてみなければ結果は分からない。それを知った上で、自分はこうチョイスする。そのたった一度のスイングは未来の後悔から振り向いた過去として行われているのである。
後悔したくなければ、それは結果にではなく、今の自分に出来る事にフォーカスするしかなく、それは我を無くしてスイングするという事でもある。
腕の角度も、腰の持ち方も、それぞれはスイングの結果とは何も関係しない。ただ、このスイングを良きものにしたいという考えだけで決定する。最高の結果を求めるし、それは過程によって決定すると知ってはいても、その選択がどのような結果をもたらすかは打ってみなければ分からない。もちろんあらゆる限りの知識を動員して、方向を決め、距離を決め、クラブとスイング径を決める。
だが、それは結果ではない。私たちに残されているのは、考えられる限り理想的なスイングをする事だけである。
クラブがどのように向きを変えるか、それがどの場所で起きれば、パワーロスの少ない最もスムーズなスイングになるか。大切な事は、右足よりもずっと右の場所でそれは行われなければならないという事だ。パターでさえ、右足よりももっと右側でダウンに入っている。
という心構えをしてもコースでは失敗の連続である。その度に、どう微調整すればいいかを考える。その上で、それは今すべきことかと考える。少しずつ改善されてゆくのは練習場も同じである。
同じシチュエーションは二度と来ない。コースでなら確かにそうである。だが練習場はどうか。同じように見える。しかし、それは微視性の問題に過ぎない。それを小さく取れば取る程、練習場でも同じシチュエーションなど二度と起きないのである。あると言うためには違いを無視できるほど微視性を大きくするしかない。
いずれにせよ、我々は常に現在という過去を生きている。意識は先に進んだり、ずっと後ろに戻ったりしながら、あちこちを覗いている。だから、今を生きるとは、未来からみた過去の再現であったり、過去から見た未来の成就だったりする。今だけで今が出来ているのではない。過去のない今などありえない。未来のない今など無意味だ。
もちろん、未来と過去と現在を繋ぐのは単なる脳の働きに過ぎない事は分かっている。脳はそうやって記憶の中から自己の一体性を把握する。その正当性は時間の中に連続性があるという事である。経験は蓄積される。その蓄積された順序が時間の正体である。
もちろん、物理学のいう時間とは量子の振動だったりエネルギーの揺らぎだったり光子の移動距離だったりする。孰れにしろそれはゴルフとはあまり関係ない。
過去から繋がっている未来を覗いてみる。そして、今を未来からの過去として生きてみる。
そういうスイングもあるという話。
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